芸予に残る被爆犠牲者の足跡【4】

終戦70周年記念特集 弓削商船高等専門学校学芸部の調査・研究
芸予に残る被爆犠牲者の足跡【4】

商船学科 濱本桂太(4年)、森光勇介(4年)、滝川鉄也(3年)

赤尾四郎さんの話

当時は修道中学の2年生と1年生が、交代で軍に協力して家屋疎開の作業をしていた。当時因島及び弓削から来ていた赤尾、宮地、岡野、松下の2年生4人組は、食べ盛りで、いつもお腹をすかしていた。休みの日になったら、里帰りをして腹いっぱい食べるというのが、最大の楽しみだった。

寮の1日は、朝6時30分から朝食、味噌汁と茶碗半分のご飯でおしまい。それから8時ごろに寮生の手に渡る昼食の弁当が配られた。その弁当のおかずは決まっていて塩鮭だった。

自宅から通学している生徒たちは、みなおいしそうな弁当を開いていた。寮生たちは、それを横目でうらやましそうに眺めながら腹の虫を押さえて、水を飲んだりして耐えるしかなかった。

昭和20年になると、米軍の本土空襲も一段と激しくなり、寮では、毎日夕食前に舎監の妹尾萬右衛門先生から全寮生に訓示があり励ましや、戦局についての話があった。

「日本はいずれ負けるだろう。伊勢神宮は爆撃されない。また、軍部は神風が吹いて、日本は勝利するときがくるだろうと宣伝しているが、そのようなことはありえない。」などと、当時は誰も口にしないようなことを言っておられた。

修道中学では、1年生と2年生が交互に建物疎開作業に勤労動員されていて、2年生の赤尾さん達は8月4日が作業日で5日が休みに当たっていた。

赤尾さんは友人3人(因島2人、弓削1人)と相談して、5日はそれぞれ自宅で過ごし、6日の朝に広島に戻る予定で、それぞれ担任の先生に「6日の朝は遅刻しますから」とお願いしたところ、3人は許可がもらえず、結局赤尾さんだけが、「10時ごろまでには登校するように」というお許しが出て、動員作業が終わるとすぐに友人3人と親元に帰った。

帰省した赤尾さん達は、5日の午後は、自宅近くの土生港桟橋で水泳を楽しみュックサックに食べ物を詰め込んで、夕方4時ごろの定期船で尾道に向かった。

尾道駅には6時30分ごろに汽車が入ってきた。列車はどの車内も超満員で、デッキにぶら下がって行くのも危険だと思い、先生から遅刻の許可もあることだし、次の列車を待つことにした。

しかし次の列車は、到着せず、その晩は駅の待合室で夜を明かしてしまった。

後で聞いた話では、その夜は、岡山か姫路で米軍B29爆撃機の空襲があって、結局朝まで列車は来なかった。

8月6日朝6時ごろ、ようやく下りの列車が尾道に到着した。これに乗ってしばらく行くと、西条か八本松駅だったと思うが、突然列車が徐行するようになり随分と時間がたって瀬野駅を過ぎた頃になって、国道2号線と平行して走る場所に来ると、2号線を多くの怪我人たちが、夢遊病者のようになって東に向かって歩いているのを見た。

広島では大変なことがあったのではないかと不安が増幅して一時はパニックになった。

やっと海田駅に着いたのが午後3時ごろで、ここからはもう西には行けないとのことだった。赤尾さんは、線路に下りて、1時間くらい線路伝いに広島を目指した。

そうすると、また多数の怪我人の集団と出会った。広島市内は燃えているのか目指す方向のあちらこちらに煙が上がっており、先生、友達、学校、寄宿舎が無事であってほしいと願いながら重い足を引きずって市内を目指した。

広島高等工業(現広大工学部)の学生に出会って、「修道中学は大丈夫ですか?」と聞くと、「市内は全域危険だから行かないほうが良い」と言われ、どうしようかと迷ったが、結局もときた道を引き返すことにした。

(つづく)

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