三庄空襲で犠牲になった 沖縄の仲宗根一家6人 現地で追悼行事を開催
昭和20年7月28日の因島空襲において、沖縄からの学童疎開で因島三庄町七区に住んでいた仲宗根さん一家6人の死亡の事実が、確定的に明らかになった。
昭和20年7月28日午前10時20分ころ、因島三庄町は米軍によって空襲を受けた。写真は米軍が攻撃をしながら撮影したもの。(「瀬戸内の太平洋戦争 因島空襲」より転載)
因島三庄町の日立造船三庄分工場と居住区が米軍の攻撃を受けたのは午前10時20分ころ。爆弾のひとつが、隣接した3軒、山崎理容店と「カキノ屋」と松本隆雄家(筆者の生家)を直撃し全壊させた。
3階建ての「カキノ屋」の最上階に住んでいた仲宗根さん一家―母と子供たち6人は即死した。外出中のお祖母さんは難を逃れた。
この事実は空襲後、地元で語り継がれてきた。山崎理容店の長女の大田しどりさんは中学3年の時、作文「忘れられない思い出」でその事実を記している。
「私の家の隣は、一家六人生埋めになり、死んでしまった。おばあさんだけ生き残り、写眞を見て狂気のように町を泣き乍ら歩いていた。」
筆者の実姉である松本家の長女は6月22日、筆者の質問に次のように答えた。
「仲宗根一家のことはよく覚えている。仲宗根さんの長女と私は小学4年の同級生。しかし一緒に遊んだことはない。おかっぱの沖縄の女の子らしい風貌が今でも目に浮かぶ。下の名は覚えていない」
「弟や妹がいた。子供は5人だった。自分の家と同じ数なので覚えている」
「亡くなったのは、母親と、5人の子供。お祖母さんが泣き崩れていたのを思い出す」
学童疎開の背景
仲宗根一家はいつごろ因島三庄町に疎開してきたのか。
昭和19年7月7日のサイパン陥落を機に日本政府は「サイパンの次は沖縄だ」と判断して、沖縄の年寄り子供、女性の島外への疎開を命令した。8万人を本土に、2万人を台湾に。
那覇市の市街地約90%を焼く尽くした10月10日の大空襲後、疎開者は激増。昭和20年3月までに、九州と台湾に8万人が疎開したと言われる。
仲宗根さん一家は、因島三庄町の縁故を頼り疎開してきたのは間違いない。しかしその縁故はどういうものなのか分かっていない。
2007年7月28日の空襲記念日に遺族、体験者、日立造船、行政、議会、住民による因島空襲犠牲者慰霊祭が初めて行なわれた。しかし、犠牲になった仲宗根さん一家への追悼は、調査が進んでいないことから十分になされなかった。
改めて今年の空襲記念日の7月28日午前10時20分、因島三庄町七区の空襲現場で有志が集い、慰霊行事が行なわれる。
【問い合わせ】TEL090-2002-3141青木
(青木忠)
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