日立造船で体験した 英軍捕虜の因島空襲 出版物に克明に記述

1942年(昭和17)から日本の敗戦まで、因島三庄町にあった英軍捕虜収容所におり、日立造船工場で強制労働についていたテレンス・ケリーさんの著書の翻訳作業が進み、因島空襲の実態がさらに明らかになりつつある。


その本は、1997年に出版された「日本人と暮らす」。2006年に「地獄船に乗り広島へ」と改題されて出版された。あまりに劣悪な状態であった日本の捕虜輸送船は当時、そのように呼ばれていた。

描かれている主な舞台は因島の土生町と三庄町である。12章が「因島空襲」となっており、その体験が克明に記述されている。

空襲の対象になったのは日本側だけではなかった。工場で働いていた、およそ200人の捕虜たちも同様であった。収容所も空襲の被害を受けた。

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三庄八区にあった因島英軍捕虜収容所。写真中央の「PW」とはPrisoner of War(捕虜)の略で終戦直後に記された。右上は三庄七区。「日本人と暮らす」(テレンス・ケリー著)より転載。

しかし一つだけ両者には大きな違いがあった。ケリーさんは次のように書いている。

「日本人は無分別に与えられた指示に従い、怯えたウサギのように防空壕に出たり入ったりしていた。一方、捕虜たちは何事も見逃すまいと、注意深く、ほとんどの者が外におり、洞窟の入口近くなどにとどまっていた」。

つまり、日本人は逃げることに精一杯で何も見ていなかったが、捕虜たちは何が起きたのか注意深く観察していたというのだ。

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空襲下の因島 3月から8月

3月19日の最初の空襲から敗戦まで、因島は継続して空襲の恐怖と緊張のもとに置かれた。ケリーさんは文章にそのことを詳述している。

3月19日の空襲について「与えた打撃は小さいほうだった」が、捕虜側の志気を高める観点からすると、効果は絶大であったと述べている。

5月5日の空襲に多くの行数をさいている。全部で162機の戦闘機が頭上を通過し、近距離で爆弾が爆発する音を聞いたという。6月23日にも多数の戦闘機B24、B29が襲来した。

7月28日空襲については「最後の、そして最も劇的な出来事」という表現を使用している。さらに終戦までの2週間前の状況を次のように描写している。

「爆発音やすぐ近くの空襲の反響は、当りまえのようになった。昼夜分かたずの爆撃は、絶え間なく巨大で大量の爆弾が落とされ、いくつかの巨大な爆発後の力が、実際の音はかすかだったが我々の建物を揺すった。我々の睡眠は絶えず、驚くべき低さで飛ぶ飛行機の編隊の轟音と近くの目標への攻撃によって妨害された」。

広島市に原爆を落としたB29は、因島からも3万フィート頭上に目撃されただろうと記している。

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7月28日空襲 生々しい惨状

7月28日の空襲には40から50機の戦闘機が使用されたという。空襲の惨状が生々しく記されている。とりわけ土生工場の被害が詳しい。

破壊された工場施設。まっぷたつに壊れた船舶。転覆させられた上陸用舟艇、攻撃で沈没した2隻のフリゲート艦。軍の被害が少なくなかったことをうかがわせる。

死傷者について、160人の死者を含む400人であると明言している。

さらにケリーさんは、もし日本が8月15日に降伏しなかったら、その3日後に日立造船因島工場への絨毯爆撃が実行され、英軍捕虜たち全員が母国に帰ることができなかっただろうと述懐している。

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