空襲の子Ⅱ【50】十年間の調査報告 尾道と因島空襲(5)

因島空襲は、学徒動員、徴用工動員などをつうじて多くの尾道市民をその渦中に巻き込んでいった。動員された人たちの背後に多くの家族、親族、友人、知人がいたはずだ。にもかかわらず「新修尾道市史」(全6巻、昭和46年~52年)は、それらのことに一言も触れていない。


編著者は「因島市史」と同様、私の義理の叔父にあたる故青木茂氏である。「因島市史」と同じ理由で、戦時の尾道市を記そうとしない。

―尾道においての戦争翼賛の状勢は、そのままに全国の市町村も同様、全力をあげての戦意高揚の態勢にあったが、敗戦と同時に占領軍の侵入があるという情報が流れたので、各市町村においては占領軍進駐後の戦後体制を整えておくために、日清、日露、第一次大戦はもちろん、第二次大戦中の兵事、行政、経済統計などの書類を焼却処分に付した。前にも書いたように、各戦時中の書類が皆無なため、記録に残す資料は全く欠除しているので、やむなく、第二次戦争前後の事情だけを紹介しておく。

ところで青木茂氏にとって歴史とは何であろうか。彼の理解はどうも、歴史=行政資料というものなのだろう。それが焼却されたので、あたかも歴史そのものが焼失したかのごとく騒ぎたてるのである。歴史は紙切れではない。民衆の心のなかに息づいている。とりわけ戦時は、国民の一人ひとりが等しく体験者であり、すべての人たちが歴史の証言者たりうるのだ。

空襲について青木茂氏は、数行記述している。しかしその内容たるや、あまりにも緊張感を失ったものであり、噴飯ものと言わざるをえない。

―米国の国内都市の無差別爆撃のなかにあっても、幸いに尾道は無難であった。強制疎開による市街地破壊という悲劇はあったが、都市爆撃から遁(のが)れることを得た。もっとも誤爆ではあっただろうが、北久保山中に二、三の爆弾投下があったのと、福山襲撃の帰途、日立造船沖の尾道水道に小型爆弾数個が投下されたのみであった。

そもそも青木氏は、尾道市への米軍の空襲を想定していなかったのではないか。米軍は、中小都市空襲のために180の市街地を選んでいた。その107番目が尾道、129番目が三原だった。防空壕調査で判明したのだが、巨大な軍需工場をかかえる因島とくらべると尾道は、空襲に対して全くと言ってもよいほど無防備であった。計画通り空襲が実行されていたなら、見るも無惨な結果となったであろう。

調査するなかで、尾道市や向島町から因島が空襲でやられているのを目撃した複数の人たちから話を聞いた。では青木氏は目撃していなかったのか。その当時、彼はどこで何をしていたのか。

「広島県人物・人材情報リスト2007」を見てみよう。

明治31年3月16日~昭和59年8月28日。因島生まれ。専攻は、日本経済史、日本近世史。「山陽日報」記者、「時事新報」主筆、「山陽日日新聞」主筆を経て、昭和21年尾道市立専門学校講師、25年尾道短期大学助教授、のちに教授、44~47年神戸学院大学経済学部教授を歴任。

なお青木氏は、昭和14年から15年にかけて出版された「尾道市史」(全3巻)の編纂者になっている。

青木氏は空襲当時、地元紙の主筆であったようだ。その彼が、わが故郷の空襲を見逃したのだろうか。撃沈された因島工場の船舶は、数日間にわたって燃えつつけていたという。

尾道水道の小型爆弾投下に言及した彼は、そのすぐ先の戦火で炎上する因島を直視しようとしない。それほど青木氏の歴史観は偏狭なものなのであろうか。

(青木忠)

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