空襲の子Ⅱ【46】十年間の調査報告 尾道と因島空襲(1)

 空襲を受けた当時の日立造船因島工場などの造船所には、全国から従業員が集まっていた。そればかりか県下から徴用工、備後地方を中心にした多数の学徒動員生、朝鮮人徴用工、英軍捕虜らが働いていた。船員、軍人も様々な地域からやってきていた。戦火を避けて疎開してきた人もかなりいた模様である。


 こうした因島が空襲されるということは、単に因島地域の問題にとどまらず、全県下、全国、世界へと戦災の影響が波及せざるをえない。十年間の調査活動で分かったことであるが、因島空襲の犠牲者の多くは島外出身の人たちだったのである。
 ところが「尾道市史」は、「幸いに尾道は無難であった」と記している。そのような理解の仕方は正しいだろうか。
 因島の造船所への学徒動員の主力は、尾道商業と尾道中学(現在の尾道北高)であった。また相当数の徴用工が尾道から動員された。視点を変えれば、因島空襲は尾道空襲とも言えるのではないか。
 「尾商九十周年史要」の昭和19年と昭和20年のところに次の記述がある。

―昭和19年 5月1日 學校報國隊出動令下令セラレ左ノ通リ出動ス 御調郡向東村日立造船株式会社向島造船所第2工場作業造船造機、出動生徒5年生106名、4年生133名
6月18日 第3學年140名日立造船所因島工場ニ出動ス
11月6日 第2學年(工業學校生徒)尾道市吉和町古浜三光造船所へ出動ス、156名
昭和二十年 7・27(7・28のこと 筆者) グラマンの編隊因島工場を銃爆撃、動員中の4年生阿部正君被爆死亡、他に負傷者あり

 そしてこの記念誌には、「阿部正君の死」という追悼文が掲載され、その最後を、次のように結んでいる。

―私達第47回、48回の同期生一同は過去回忌には、法要を営み、又今年は三十三回忌に当るので、去る昭和52年7月24日、東京、大阪、九州を始め、全国から馳せ参じて想い出の地、因島に於いて、盛大に法要を営みました。次の五十回忌は果たして何人集まり得るか、私も六十五歳になる筈です。皆んな元気で一堂に会し、阿部君の五十回忌法要を営み、冥福を祈りたいと思います。

 「尾道北高50年史」は当時を次のように記している。

―1944年(昭和19)6月、尾道市学校にも勤労動員の波が押し寄せてきた。5年生は日立造船因島工場へ、4年生は同向島工場へ動員されたのである。因島工場では全員入寮し、向島工場では遠距離で通勤できないものが入寮していた。やがて3年生、2年生も向島工場へ動員され、1年生だけが残って授業を受けていた。
 朝7時から夕方5時まで、わずかな休憩だけで働き通し、後には超過勤務が2時間も加えられた。仕上げ、溶接、取り付けなどが主な仕事であったが、17歳から14歳までの青少年にはまことにつらい労働であった。病気で倒れたり、なかにはそれが悪化して死亡するのすらあった。1945年(昭和20)になると新2年生も約半数が向島工場へ動員されたところで敗戦となったのである。

 因島に動員された尾中生は、学年の人数から推測して150人くらいと思われる。尾道商業は三庄町の日立造船協和寮に入寮したが、彼らは対岸の生名島にあった日本水産の船員寮に入った。わが子を因島の工場に送り出した家族の想いは、どのようなものであっただろうか。
(青木忠)

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