75歳老人のフーテン 2019東北の旅【30】第5雄勝丸

9月11日(水)③第5雄勝丸

50余年前私は第5雄勝丸の船主の家に次の航海までの4~5日間逗留させていただいた。家族構成は船主夫婦・おばあさん・子供2人の5人家族であった。船主の家のある集落には10軒ほど家があったと記憶する。集落の中では船主の家が一番立派でおそらく代々の網元だったものと思う。

当時第5雄勝丸は女川(おながわ)港では最新鋭の大型のカツオ船であったので多額の投資したものと思う。船主の家では私は三食部屋付きの客人生活であった。今から振り返ると昔の渡世人の客人さんの扱いを受けていたように記憶する。毎晩の夕食は毎回豪勢で刺身とざるいっぱいの殻を割った取り立ての生きたウニでビールの大瓶が付いていたのが、鮮明に記憶にある。

その生活は小さな集落の中でやる事は何もない。薪割りでもするので仕事を言いつけてくださいと言うと、奥さんはそれはいいから子供に勉強を教えてくれればよいと言う。夏休み中なので娘に毎日1~2時間教えていた記憶がある。可愛らしく頭の良い子供だった。兄の方は高校生で仙台に下宿し私立の高校にかよっていた。私の逗留中に帰ってくるが勉強を教えるというとすぐに逃げだし、常に私を避けていた。後に船に乗り知ったのだが若い漁師達の共通認識では息子は不良でバカという評価だった。

船主はおそろしいほどの無口で威厳があり、食事は一緒にすることが多かったが、口を開くことはほとんど無かった。印象に残っている会話は船の中は軍隊と同じで厳しいので覚悟しろという忠告をしていただいたことだ。船主の仕事は朝夕の船への無線での連絡や次の航海の仕込みの段取り、漁協の会議、業者との打ち合わせなど車で出かけることも多かったが、家ではまず何もしない人であった。おばあさん・奥さんはいつも立ち働いている印象が残っている。この家庭の男尊女卑で封建制の強さは当時のわたしにはインパクトを与えた。

そして第5雄勝丸の漁師生活の経験は本来ゼミのレポート作成の目的であったが、漁師生活に埋没して目的に対して何も収穫なしであった。しかしそのおかげで下船の際には当時としては考えられないほどの手当を頂くことになった。そして東京に帰るとそれを資金にアパートを少しましなアパートに転居することができた記憶がある。

第5雄勝丸の廃業はカツオ不漁によるものだろうと思われる。しかし倒産という後を引く事態に陥ったのは主人の誇りが邪魔をしたのか、息子の放蕩が禍をおこしたのかといらぬ推測をする。

50余年の時の経過はいかにも長かった。私の記憶をどうしても現実のこの地域にスライドしてしまい、浦島太郎状態に陥ってしまう。

田中伸幸(因島田熊町)

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