空襲の子Ⅱ【41】十年間の調査報告 因島空襲と企業(5)

 先日のことである。土生国民学校5年生の11歳のときに3月19日の空襲を体験した田中善造さんにお会いし、その現場に行き、説明を聞くことができた。


 当時、田中さんの自宅は、土生町の安郷の坂のあたりにあった。近くに養成工員寮「克己寮」があり、日立造船因島工場の中門を真下に見る位置である。お話の要旨は次の通りである。

―午前中、生名島方面からグラマンの編隊がやってきた。友軍機だと思って妹とふたりで、玄関前でその数をかぞえていると先頭機が急上昇、急降下して自分たちをめがけて発砲してきた。慌てて玄関の内側の地べたに伏せ、目と耳を手でふさいで銃声がおさまるまで待った。
 まわりが静かになったので外に出たら、ふたりがいた場所の地面に1メートル間隔に穴があいており、掘ると機銃掃射の銃弾がでてきた。また後で見たら、すぐ下の家の前にすり鉢状の大穴ができていた。
 グラマンの射撃痕は安郷の坂の道路にもできており、通行人を標的にしたのだと思った。いずれも穴をほると弾がでてきた。名前の知らない人が爆弾の部品と思われるものを発見したが、警察官に没収された。
 グラマンがやってきたころ、工場に面している安郷の坂のすぐ上の山に、機関銃よりひとまわり大きい機関砲のようなものをもって登っていく日本兵が見えた。

 前号で書いたが、板倉さんは造船所沖のこと、花咲さんは工場内の事態を語っている。田中さんの話からは、工場周辺の様子が伺える。
 まず注目すべきは、米軍戦闘機が工場周辺の住民を意識的に狙ったということである。田中さんは操縦士のメガネ姿が見えたと言うが、それほどグラマンは低空飛行をしており、工場内外を見間違うはずがない。
 やはり3月19日空襲でも爆弾が投下されたということである。爆弾使用は、板倉さんが重傷を負った帝立丸攻撃だけではなかったようだ。総じてこの日の空襲の規模が、私の理解していたものを大きく超えていたことは間違いのないことである。
 田中さんの父親は当時、日立造船が経営を任されていた香港の九龍造船所に勤務していた。兄は三原工業在学中で寮に入っていた。最初の空襲を受けた田中さんは、父の指示で母と妹とともに、父の故郷である双三郡田幸村(現在は三次市)に疎開したという。
 さて次は、7月28日の空襲のことに移ろう。社史での空襲の極度の過少発表にもかかわらず、因島工場の当時を知る内部のひとたちが、この日の惨状を公然と語っていたということが分っている。
 私の手元に、日立造船因島工場が作成した、「因島工場75年史(抄) 因島工場の思い出を語る」という小冊子のコピーがある。その「ゆかりの人々の思い出集」の項に、善行寺住職(当時)の入澤弘生さんの「遠く大阪鉄工所時代からの縁」という文章が掲載されている。

―昭和23年、因島工場から善行寺前住職に感謝状を頂戴しました。それには功績が述べられてあります。(中略)「昭和20年7月、米国機当所空爆の際は自ら寺院を開放して死者60有余名を収容し、納棺、火葬に至るまで献身的なるご尽力を受けたるは、今も猶感謝感激にたえざるところであります」……寺に大きな茶箱が残っています。これは収容された遺体の臭気を消すため、お茶を蒸して、それで臭いを消したとのことです。
 被爆者に朝鮮の方が3名おられました。遺骨は、戦後20年を経て、昭和40年、韓国の遺族に渡しました。

 工場は犠牲者の人数にふれているのである。
(青木忠)

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