空襲の子Ⅱ【24】十年間の調査報告 防空壕の今(4)

 因島図書館に所蔵されている「重井町史年表」(平成5年再編、1993、重井町文化財協会)に次の記述がある。「昭和23 1948 軍用地民間へ払下げ」。


 昨年8月、重井町の海岸側が軍用地であったことを裏付ける聞き取りができた。2カ所の防空壕が庭と畑にある夫妻宅を訪ねた。重井町畑作地域である。その一帯にはほとんど民家はない。昭和52年に越してきた。最近、イノシシ被害に困っているという。
 夫の話によれば、庭に掘られていた壕は、入口がかなり崩れていたという。これは、人が避難するものではなくて、燃料の入ったドラム缶など軍需物資を保管するために掘られたものだ。掘ったのは、朝鮮人だ。同町に朝鮮人の居住地域があったという。
 妻によれば、重井中学校(鉄工団地の正面)から自宅あたりまでが軍用地で、海岸に兵舎があった。このゾーンに同様の防空壕が約30カ所あったという。
 「広島県戦災史」によると敗戦時、因島には陸軍船舶部隊(通称暁部隊)機動輸送第26中隊が駐在していた。中隊は、一般的には190人前後である。また、防衛省防衛研究所史料閲覧室には、特別地区警備隊御調郡土生部隊が配置されていたとする記録が残っている。六人常駐で、最大動員305人。船舶部隊が重井町などに展開し、警備隊が軍需工場の防衛任務に就いていたと推察されうる。
 軍用地に関係していると思われる防空壕で、確認できたものを記してみる。先の夫妻宅から数十メートル行ったところ。しまなみビーチに面した大浜町相川。因島金属近くの丘陵部。重井町小田浦にある八紘産業敷地。中庄町西浦新開は軍用地であった。
 土生町 巨大な軍需工場と化した日立造船因島工場のあった土生町は、工場内外とも防空壕がいたるところに掘られていた。
 日立因島は県を代表する軍需工場であった。「広島県戦災史」は「戦争経済の推移 既存工場の軍需化」の項で、「つぎに既存工業の軍需化としてあげられるものに日立造船(株)因島工場があった。」として、二ページにもわたって説明している。敗戦時の従業員数を因島六四二三人としている。もちろんこの数には、臨時工、徴用工、挺身隊、学徒動員、英軍捕虜は含まれていないと思われる。
 この工場を米軍戦闘機の攻撃から守るために、数カ所に対空高射砲台が設置されていた。対岸の愛媛県上島町生名島、ホテル・ナティーク城山のある城山(じょうやま)、大宝寺墓場近くにあったという。江の内に見張り所が置いてあったとも聞いた。工場内に接岸していた船舶のいずれも武装していた。
 工場内とその周辺におよそ50カ所にも及ぶ防空壕があったとみられる。工場事務棟の近くに14カ所。現在そこはナティーク城山の通路になっており、入口が封鎖されているが、その半分位を見ることができる。
 工場の中心部の山側におよそ14カ所位の巨大な防空壕群がある。すべてが鉄扉、コンクリートブロックで封鎖されており、工場の話だと、「いずれも危険なので使用禁止にしている」そうだ。目測ではあるが、なかには高さ3メートル幅2メートルのものが5カ所ほどある。従業員が避難するためには大きすぎるが、他に何かを入れたのかも知れない。
 注目すべきは、城山である。工場側の14カ所に加えて生名フェリー乗り場側に5カ所掘られている。これは工場付近の住民が避難するためのものである。この小山はまるで「防空壕の巣」である。
 この工場は、土生町から三庄町家老渡(かろうと)にかけて展開している。そのコンクリート塀に沿うバス通りを歩いてみると、次々と防空壕跡が発見できる。なかには入口の形がはっきり分かるものもある。
(青木忠)

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