碁打ち探訪今昔四方山話【39】秀策改名のエピソード(3)本因坊家跡目の下心

14歳の夏 三段格に昇進

桒原虎次郎改め安田栄斎―秀策となり、この間、江戸では「安芸小僧」の名で話題にのぼるようになっていました。備後の国、因島生まれだが、他国の人たちは三原も尾道も備後でありながら安芸広島浅野藩の分家筋に当たることもあって安芸小僧のイメージが強かったようです。

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天保の飢饉を救った慈観寺本堂。


閑話休題 碁所本因坊丈和から正式に初段を免許された栄斎は天保11年12歳の春、師匠十三世本因坊丈策のすすめもあって郷里因島に帰郷。三原候をはじめ橋本竹下(ちっか)そして両親らに入品の報告。御礼をのべました。

ところで三原藩お抱えの囲碁留学生を江戸本因坊家へ送り込んだ時代は不穏が続いていました。天保8年をはさんで天保7年、9年と広島藩全域にわたって大洪水や夏季に寒波が続いたり、その上に多雨虫害などもあって農作物は不作で米価の高騰などを招き、いわゆる天保の大飢饉です。藩内の各地で不穏な空気がみなぎっていたと伝えられています。

尾道では難民救済事業として天保8年には栄斎とご縁の深い艮神社ではおかゆの施行が行われたほどです。豪商の橋本竹下はこのころ尾道町の町年寄をつとめており、家憲によって隠居。嗣子静娯が吉兵衛と名乗っています。橋本家では被災者救済のため、ぼだい寺である慈観寺の本堂の改築工事を計画して難民を救済したと語りつがれています。栄斎が帰った時にはすでに完工していました。のちに栄斎と兄弟子にあたる島根県(石見国)出身の岸本左一郎五段(後七段贈位)と4回にわたって記念対局をすることになります。

今風にいえばチャリティ公開対局とでもいうのでしょうか。大飢饉に子供ながら技芸がお役に立てばと協力する姿勢は大人たちも好意を寄せていました。なかでも三原藩浅野候は当時の苦しい藩財政の中から12歳の栄斎少年に五人扶持の家禄を与えるなど、いかに彼の将来の大成を期していたかが推測されます。そして下手相手の対局にもゆるむことなく心血をそそぎ研鑚に励んだとあります。

(庚午一生)

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