空襲の子Ⅱ【4】十年間の調査報告 時代の縮図、因島(2)

 自らが生まれ育った故郷を時代のなかで捉え直すことは、容易なことではない。空襲の調査を開始する以前の私にとって、因島は単なる生まれ故郷にしか過ぎなかった。生まれてまもなく空襲を受けて死にかけたことを知らされたのは小学生の時であったが、その意味を受けとめることなどできはしなかった。それを、私しか体験していない個人的な出来事としてしか理解できなかった。その後、大きな空襲があったことなど誰も教えてくれなかったし、知ろうともしなかった。


 瀬戸内に数多くある島のひとつで、大した不満を自覚することなく育っていった。そして大学進学をきっかけに島から出て行ったあとも、疲れたときはいつも帰省し、充電してはもとの部署にもどっていった。そうしたことをつい最近まで繰り返していたような気がする。
 だが今思うに、私の成長過程は我慢につぐ我慢の過程だったのかもしれない。時代の荒波と重圧のなかで押しつぶされてしまわないように闘っていたのかも知れない。それで今やっとたどりついたのが、「時代の縮図、因島」という命題ということになろう。
 自らの成長という個人史的窓口から因島の戦中・戦後史を探ってみたくなった。そうすればまた何か新しい視点が浮かびあがってくるかも知れないと思う。
 私は第二次世界大戦末期の昭和19年10月11日に、広島県御調郡三庄町神田に住む松本隆雄と清子の三男として生まれた。5人の子供の末っ子である。祖父母と合わせて9人家族。祖父は船の機関長あがり。父は地元の小学校教師。かなり恵まれた家庭であったという。
 生まれた翌年の昭和二〇年七月二八日、近くの軍需工場を狙った米軍の空襲で自宅が全壊し、その下敷きになって仮死状態になったが、息を吹き返した。生死を分けたのは、家屋の中心から外れたふとん部屋に祖母と母とともに避難し、ふとんに包まれていたことだという。となりの家の三階にいた住民は全員が死亡した。母は私を防空壕に連れて行かなかった。私が壕のなかであまりに泣き叫ぶので、それを心配して自宅避難を選んだのだろう。
 自宅が全壊したが幸にも私の家族は、旅館に貸していたすぐ近くの2階屋に移り住むことができた。しかし、身を挺して私を守り負傷した祖母と母は、受けたダメージがもとで早く死んだ。祖母は昭和29年11月に旅立った。結核を発症した母は昭和25年7月、闘病中のさなか盲腸炎の手遅れで亡くなった。私が5歳の時である。
 空襲を受けた数カ月後に私は、家族と引き離されることになった。昭和21年4月、父がとなり町の椋浦小学校の校長になり、私だけを祖父母のもとに置いて引越していった。病気の母に育児の負担をかけないという配慮だったようだ。再び母と一緒に住むようになるのは、母が死んだ昭和25年の4月のことである。創立したばかりの椋浦保育所に私は入所したのだ。
 家族との別離は、母と子にとって辛かったようだ。この時期のことが母の残した「遺書」という標題の日記に記されている。昭和23年6月26日から9月30日のものである。自らの病について歌にしている。

―結核菌 出づるときゝて 悲しかり 行末遠き子らを想いて

―愛し子よ 母のいたつき 受け染むな からだきたへて 遂げよ健けく

となり町に祖父母とともに暮らす私について歌う。

―祖父達と 育つ忠に 会ひたくも じっと忍びぬ病ひある身は

―健やに 育つと聞きて 思いなし 病ひある身は世話も出来ねば

(青木忠)

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