ふるさとの史跡をたずねて【102】大土生宮地家墓(因島土生町對潮院)

大土生宮地家墓(因島土生町對潮院)

對潮院の境内を抜けて、裏の墓地の前の道路に出る。そこから少し右手の大きな樹木の前に大土生宮地家の墓地がある。そこには、初代清左衛門光時、二代久右衛門光宗以下、八代又次右衛門貞久までの墓がある。

ここに大土生宮地家の墓があるのは偶然ではない。否、ここになければならないのである。對潮院は因島村上氏の時代には第二家老稲井氏の別邸(下屋敷)對潮閣であったところである。稲井氏の領地を第四家老の宮地氏が引き継いだのなら、当然對潮閣も宮地氏のものでなければならない。では、なぜ宮地氏のものになったのか…。

慶長五年の関ヶ原の戦いは、関ヶ原だけでなされたのではない。因島村上氏は小早川氏の配下だったので西軍である。ところが伊予の高橋氏は東軍についたので、三津浜の松前(まさき)城へ攻めていき大敗を喫した。その時の戦死者の中に重井馬神城主末永景光、中庄大江城主宮地忠明などの名が見える。末永氏は稲井家の分家で母方の姓を名乗った。宮地忠明は稲井氏と書かれてあるから、稲井家から養子に行ったということであろうか。

因島時代最後の当主稲井治憲にとっては、父家治が負傷し因島へ帰ってから亡くなり長子重治も失っている。末永景光、宮地忠明も治憲の兄弟かそれに近い関係であっただろうから、まことに痛恨の極みであっただろう。

治憲は本邸、別邸等を宮地忠明の遺児に譲って因島を去ったと言われている。對潮院は光時が慶長13年(1608)に開山したということであるから宮地忠明の遺児というのは大土生宮地家初代清左衛門光時のことであろう。

(写真・文 柏原林造)

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