空襲の子【18】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 証言 星野正雄さん(完)

 前号の記述について星野さんご自身から間違いを指摘された。星野さんが身に付けた特殊技能を「定盤(じょうばん)」と取材したにもかかわらず、「旋盤」と書いてしまった。広辞苑には「表面を正しく平滑に仕上げた鋳鉄製の平面盤。この上に工作物をのせて心(しん)出し、罫書(けがき)、平面度の測定などを行う」とある。「旋盤」は工作機械のひとつで、工作物を主軸とともに回転させ、表面切削・ねじ切り・孔あけなどを行う。
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原爆投下で廃墟と化した広島市


 因島空襲をくぐり抜けた星野正雄さんたちは、今度は軍人として召集をうけ、被爆してまもない広島市に派遣され、第二次被爆することになった。原爆投下10日後の8月16日、陸軍歩兵114部隊に応召し、広島市に向かった。任務は当然にも救護活動であった。星野さんたちは中庄湾から尾道便の船に乗り、部隊に合流した。因島から応召した人員はおよそ100人だったという。
 広島市に到着したもののなす術もなかった。結局は1泊したのみで部隊は解散になった。しかし、放射線の被害は、直接被爆した人達にとどまらず、爆発後早期に市内に入った人や、多数の被爆者の救護や看護に従事した人達におよんだ。
 わたしは因島地域に多くの被爆者がいることを知っていたが、星野さんのお話をうかがってその理由が理解できた。その他にも因島とヒロシマの悲しいつながりについてお聞きしたことがある。
 昭和20年、田熊町の占部造船(現在の内海造船田熊工場)に学徒動員で来ていた誠之館中学生の最上級生たちが、卒業とともに動員を解除されたあと広島市の旧制高等学校に進学し、被爆して、亡くなったという。
 また、被爆し、亡くなった「移動演劇桜隊」の中心女優の園井恵子さんと因島との実らなかった縁である。田熊町の故岡野吉衛さんが話してくれたことだが、8月6日当日に園井さんらは、日立造船因島工場で慰問公演をすることになっていた。同工場の厚生課の一員だった岡野さんは尾道駅まで迎えに出ていたが、園井さん一行がやってくることは決してなかった。
 戦争は終わった。星野さんは5日間くらいの休養の後に工場に復帰した。しかし全国の主要造船所は米占領軍(GHQ)の管理下に置かれ、その存続も危ぶまれる状況にあった。軍需工場として戦争遂行の一翼を担ったとされた造船産業は、再び軍備ができないよう造船施設が撤去され、20カ所の造船所にある全設備と付属品が賠償指定された。
 やがて賠償指定は解除(昭和21年)され、工場再建と生産力増進に島をあげて取り組むことになった。捕鯨母船橋立丸修繕工事にあたって涙ぐましい住民の応援があった。食糧難のなかで、島民の一握り供米運動が行われ、従業員には特別な食糧が供給された。従業員もそうした激励に応えて生産力向上に必死になった。そうしたなかで、空襲で亡くなった犠牲者を追悼する気持ちは薄れていったという。一刻も早く戦争を忘れたかったのだろう。
(続く)

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