因島にて… つかみかけた確信【62】

時代遺跡の島(13)
因島捕虜収容所(11) 著者は、「エピローグ――日本を再び訪ねて 一九六九年八月」の冒頭に次のように書いている。

―それはたしか1945年9月12日に、鹿屋飛行場から沖縄へ向かうB24爆撃機に乗っているときに、私の潜在意識のなかでかたちづくられはじめた願望だったと思う。

 「いつの日にか、自由な人間として日本を再び訪れよう」と飛行中に漠然と考えたにちがいない。
 1969年8月、日本を訪ねることになった。著者は、南太平洋の英仏共同統治のニュー・ヘブリディーズ諸島に、イギリス政府の公式使節として赴く機会を得た。その帰りに日本を訪問したのである。その世話をやいたのは、大阪国際万博を担当していた外務省の高官である。
 まず列車で広島市に向かい、平和公園に行った。著者は次のようにその時の印象を記している。

―訪れた広島は、他の日本の都市とほぼ同じで、活気にみちあふれて、けばけばしく、個性的魅力にとぼしかった。しかし、手入れのゆきとどいた平和公園の芝生や舗道と、記念博物館に展示された原爆の図や写真の対比はショックだった。(中略)しかしながら、私としてはどうしても原子爆弾の投下なしには、とても捕虜の生還はおぼつかなかったという考えを、慎むことができなかった。

 翌日、元因島収容所の関係者と松山市道後温泉の旅館で再会することができた。元所長と元副所長を食事に招待したのである。ふたりは愛媛で養蚕の仕事をしていた。しばし懇談し、「好意的な夕べ」を過ごしたようだ。翌早朝、駅に見送る元所長の姿があり、著者を感動させた。
 著者が18カ月過ごした、善通寺収容所は善通寺第二高校になっていた。列車で今治に行き、フェリーで尾道に渡り、ここで一泊し、因島の土生町に向かった。案内をかってでたのは、船中で知り合った土生町出身の僧侶であった。著者の訪問は地元紙などで大きく報道され、その僧侶も気づいていたのだ。
 下船して少し経って、日立造船因島工場の正門の前に立った。見学を申し入れたが、断られた。やむを得ず、市役所を訪ね、市長秘書の案内で再び工場に向かった。しばらくの間、27年前の職場の面影を求めて、工場内を歩いた。編集後記には次のようにある。

―著者フレッチャー‐クック氏は、この日本再訪問で、ステテコにシャツ姿の元因島分所の徴用軍医某氏にあったときと、昔、捕虜たちが作業に通った日立造船所の家老渡門を見つけたときに、激しい心の動きを見せたといわれる。

 ひとつは嫌悪と緊張と、ひとつは去りがての顔だった。彼は家老渡門の前にしばし動かず、まわりの好意で記念撮影をしたあとも、なかなかそこを離れられなかったそうだ。けだし滂涙の思いが止まらなかったのであろう。
 最後に著者は、四分の一世紀を経て日本を訪れた印象を書きとめている。第二次世界大戦を知らぬ世代、とくに学生たちは、とても親切で、協力的であったという。それと違って45歳以上の層は、著者が捕虜だと分かると、態度が変わった。非協力的で懐疑的だった。しかし、再会した収容所のふたりは違っていたという。

―彼らは私以上に”土生”を忘れ得ない立場にあった。思うに彼らは、私が地球を半周して、”横暴な”勝者としてではなく、生涯忘れられぬ人生体験を分つ一人の人間として、彼らに再会したことを心に感じたのではあるまいか。

 1969年8月、私は何をしていただろう。東京にいて学生運動を引退して間もないころであった。こうした感動的な瞬間を知ることもなく過ごしていた。
(青木忠)

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