因島にて… つかみかけた確信【59】

時代遺跡の島(10)
因島捕虜収容所(8) 「1943年12月18日(土)午前九時、土生の捕虜仲間だった将校4人と私、土生収容所の〝微笑者(スマイラー)〟軍曹、それに善通寺から私たちをつれにきた日本軍の准尉――。この7人は尾道の桟橋に腰かけている。」。一行は、四国の多度津行きのフェリーを待っていたのだ。


 突然、その場に二人の捕虜が現れた。「尾道近辺の別の収容所から、物資受領に波止場へやってきたのである。」。おそらく尾道桟橋の向いの島にある向島収容所からやってきたのだろう。捕虜たちは互いに、付添いの准尉らのすきをみて、情報交換を行なった。向島では1年間に100人中22人が死亡したという。
 因島出発の朝、収容所側と五人の将校との間に次のような会話がなされた。

―所長は、私たちを病室に招集して、最後の、簡単だが慈愛にみちたスピーチをした。私はその通訳をやらされたが、彼は、こう言った。あなた方のために最善を尽くした、新たな収容所でのご多幸を祈る、と。それに答えてリッキー・ライトが、こう言った。あなたと常に顔を合わせていたわけではないが、ごく控え目に言っても、出発点で関係は改善され、あなたができる限りのことをしてくれたことも、私たちにはわかっていると。

 残った捕虜たちの隊長にプリッチャード准尉が指名された。彼は戦争が終了し、解放されるまで隊長を務めあげた。彼への評価は高かった。2008年春、彼の息子イアンが因島を訪れた。父は、「因島に再び行きたい」と語っていたという。著者は言う。

―準士官としてのみならず、男として第一級に属する人間であった。かつては空軍に通暁し、部下をよく掌握し、ひとたび捕虜となれば、収容所内の規律は人間性の和に基づくべきことを知っていた。明朗、有能で、知性が高く、賢明な彼は、われわれ捕虜の誇りとする一人でもあった。

 著者の記述によれば、善通寺の捕虜は700名たらずであった。アメリカ人将校300名、イギリス人将校110名、オーストラリア人将校80名、オランダ人将校70名、その他130名のアメリカ人下士官が調理場で働いていた。著者はここに、1943年12月から45年6月の1年半にわたり、いることになる。
 この時期、とりわけその後半を特徴づける事項は、戦局の劇的進行と「飢餓地獄」であった。
 1944年の後半になると、収容所から捕虜たちに配布されていた英字新聞「ニッポン・タイムズ」にさえ、日本の「重大な惨敗の記事」がのり始めた。その後、その新聞は東条内閣の総辞職を報道したという。四国へのアメリカ軍の空襲が切迫していた。

―日本軍の番兵たちは、片手に着剣した銃を持ち、もう一方には双眼鏡をもって炊事場の屋上に陣取っていた。捕虜の消火班員たちは全員、部署についている。料理庖丁や肉庖丁類は、ウサギの草を刈る、おもちゃまがいのカマもすべて日本兵に炊事場から持ち去られた。

 以上の記述をみると収容所側は、空襲への警戒を強めるとともに、その機に乗じた捕虜たちの反乱、あるいは脱走を恐れていたのかも知れない。
 収容所は、日本全土で食糧が欠乏しているために、捕虜への食糧配給の改善は望めない、と公式声明した。しかし、捕虜たちにとってこの事態は、「皮肉にも、飢餓寸前の捕虜たちに、わずかながらも慰めをもたらしたのである。つまり私たちは、連合軍の手が、しだいに日本の首を絞めつけていることを声明から察したわけだ。」と、いうものに思えたのである。

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