因島にて… つかみかけた確信【58】

時代遺跡の島(9)
因島捕虜収容所(7) 劣悪な労働条件の造船所で、捕虜たちは作業についた。ここでも彼らは、部隊としての連携をとりながら、労働環境を少しでも改善しようと努力した。待遇も彼らを監督する日本人によってかなり違いがあったようだ。著者はそのあたりを次のように記している。

― 木材置場の時間係と製材場の職工は、じつに感じのいい民間人だった。あまりうるさいことを言ったりはしない。ところが、監督は別物であった。小さな身なりの小うるさい、いやに威張りちらす日本人で、休みなく私たちを追い立てた。

― 造船所では監督が交代し、新任の監督は私たちに協調的であった。すなわち、休憩時間に小屋でストーブをたき、暖をとることもできるようになった。針と糸も与えてくれ、しかもそれを収容所へ持ち帰らせてもくれたのである。この新監督は英語を習いたがり、私は日本語と英語の交換教授をした。

同じ職場で働く日本人工員との交流もあったようだ。

― 造船所は12月31日と1月1日の両日、作業を休止すると知らされた。私たちが30日に仕事を終えると、日本の工員たちが新聞を熱心にのぞきこんでいる。木材置場の時間係は、私に英国の戦艦2隻が沈められたこと、ホンコンの捕虜千人を乗せた日本船が、アメリカ潜水艦の魚雷を受けたことなどを話してくれた。

 ところで収容所内では、国際赤十字社から捕虜あてに送られてくる支援物資の収容所側による横領が、常態化していたようだ。それは3カ月の間をおいて届くのだが、所長らがその開封に立会い、「禁制品」だと称して「くすね」て、その後、捕虜に配布するのだ。
 個人的にも物資難にあえぐ収容所幹部にとっては、赤十字から送られてくる品々は垂涎(すいぜん)の的であったのであろう。捕虜たちはその不法行為を黙認せざるをえなかったが、この支援物資を収容所側との駆け引きにもつかった。
 食糧の欠乏は、深刻であった。著者は親しくしている日本人監視兵の「ジョージ」から、「ニッポンの国民には、食糧やそのほかの物資を、本土からこことかそこらの島へ運ぶのが、もうむずかしくなっているんだ」と告げられた。捕虜たちの最大の関心事はやはり、戦局の推移であった。著者は次のように明言している。

― 虜囚の全期間を通じて、私はことあるごとに日本人と戦争の推移について話し合うようにした。日本語になれるにつれ、ますますそれは容易になったが、造船所の人びとも実に気楽に話してくれたのである。1943年の半ばにかけて、これらの話にはさまざまの変化が見られる。

 1942年中、日本人は、「戦争は数カ月以内に終わるもの」と、信じていたという。しかし、「オーストラリアの防衛が固く、アメリカが反撃に転じ、アリューシャン列島でアッツ島が奪回された」となると、日本人の戦局観は大きな変化を見せた。「戦争は日本の勝利となるが、それにはいささか時間がかかるかも知れない。東南アジアの富を全面的に掌握するまでには、8年ないし10年の歳月を要するかもしれない。」というようにである。
 著者は1943年3月の日記に、「生き残れた者は2年ぐらいのうちに解放される望みあり」と書いた。この戦局への見通しは的を得ていたと言えよう。
 捕虜が因島の収容所にきて丸一年が経たころ、その理由は明らかではないが、著者ら5人の将校は近日中に香川県の善通寺収容所に移動させられることになった。著者らをとりまく状況は新しい展開を見せるのである。
(青木忠)

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