追憶 ~甦る日々【4】一章 希望と躓き

学生寮の物語はつづく。

私が住む寮は、広島大学教育学部東雲分校キャンパスの一角にあった。旧広島師範学校がその前身である東雲分校には、中学校と小学校と特別支援学校の教員養成課程があった。
資料によれば、広島師範学校が広島市東雲町に移転したのは、1941年(昭和16)のことである。私はそれから22年後に入学したことになる。私が入学したころの分校の建物のすべてが木造だったような気がする。おそらく、師範学校時代のものが戦後もそのまま使われていたのに違いない。

学生寮にも、これは私の想像であるが、師範学校時代の匂いが漂っていた。分校キャンパスのなかでも、建物は隣接しているのだが、独立した異色の区域に、教師をめざした、およそ50人の寮生が生活していた。

寮生たちはみな、大人びて見えた。私は、そうした学生寮の雰囲気に馴染み、急速に変わっていった。つい最近までは純情な高校生だったというのに。

私の高校生活はほぼ母親の管理下にあった。酒や煙草とは無縁で、喫茶店にも入ったこともない。隣町の映画館に行くのも母親の許可が必要だった。そうした無防備な少年が突然、大人びた大学生の集団に入り込んだのである。

酒のことはすでに記したが、入学するとまもなく煙草を始めた。初めて吸ったのは、生意気にも、最高級の銘柄である「ピース」である。

観楽街へのデビューも早かった。私は金もないのに深夜、風俗店が立ち並ぶ街角にある居酒屋で度々飲むようになった。すべてが寮の同室の先輩のおごりである。

彼は苦学生で家からの仕送りがなかった。居酒屋の近くの酒店で毎日アルバイトをして学費と生活費を稼いでいた。仕事は酒の配達で、いつのまにかその界隈では「顔役」になっていた。

アルバイトが終わる深夜11時ころ先輩から、「おい、出て来い」と寮の私に電話がかかってきたものである。私は「はーい!」と返事をしてタクシーで駆けつけるのである。もちろんタクシー代も先輩もちである。

飲むのは決まって、先輩行きつけの「おこぜ」という店だった。見栄えは悪いが、中身は最高ということか。割烹着のママがひとりできりもりしており、10人も座れば満席になった。

酒や料理、放歌を楽しんで閉店の午前3時ころまで時間を過ごすのである。当時はカラオケではなく、もっまら「流し」の時代だった。ギターを爪弾きながら、客からのリクエストを受けて歌ったプロの男たちがいた。

そういえば、店にやってくる他の店の「お姉さん」たちとも親しくなり、深夜、タクシーで呉市の海水浴場まで泳ぎに行ったこともあった。

通常は、店が終わると寮に戻るのだが、途中で先輩はいつも「お前は先に帰れ」と言ってこつ然と姿を消した。彼には特別の時間と場所があったのだろう。別れたあとどこで何をしていたのか、訊ねることはしなかった。

学生寮の深夜はしばしば、酔っ払いが支配した。寮外で飲んだ寮生が大声を上げながら帰って来る。そして、廊下を「起きろ!起きろ!」と叫びながら歩き回るのである。眠っている者にとってはたまったものではないが、誰も文句を言わない。お互い様とでも思っているのか、寮の慣わしになっていた。

私の部屋にも先輩の友人が酔っ払ってやってきた。街での「武勇伝」を先輩に報告に来るのだ。私にはよく分からない内容だったが、何やら楽しそうだった。

(青木忠)

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