因島にて… つかみかけた確信【24】

文章化を急げ(2)
 奈良市在住の大田(旧姓山崎)しどりさんから、お手紙とともに、「忘れられない思い出 三D 51 山崎しどり」という、作文が届いた。2008年8月15日のことである。因島三庄町神田の居住地にたいする空襲で山崎さんの家は全壊した。その体験を中学3年の彼女が、記したものである。原文のまま全文を紹介したい。


 一生忘れられない思い出として、私の心の中にある昭和20年7月28日の夜は、今夜のように、きれいな月が出ていた。今日まで、楽しい思い出、悲しい思い出は多くあったけれども、一番印象に残っているのは、米国のP51の襲来で爆撃を被り、家は全壊し、家財は飛び散って跡形もなくなった時の事である。
 その当時、私の家は、瀬戸内海の静かな自然美を備えた因島という小さな島に父母と私と妹の四人暮らしだった。生まれてから、何不自由なく暮らして来た私には、爆弾が落ちる迄は、戦争をそんなに恐ろしいとは思わなかった。家の前には、朝早くから学徒動員のお姉さん達が先生にひきいられて、歌を唄い、ひまがあれば私を遊んでくれたり、母が婦人会の服を着て、バケツで水を運ぶ練習をしていた事等を覚えているだけである。
 時に防空壕に入るのでも、自分の家の床下が防空壕になっていたので、中ではいつも何か食べていた。であるから、その中に入るのも一つの楽しみであった。しかし、その楽しみも悲しみに変わる日が来た。
 その日は、朝から空襲警報が出ているにも拘らず父は工場へ行った。出かけぎわに「空襲警報は出ていても、家の壕に入っていれば大丈夫だ」と言ったが十時頃、母は、私と妹を連れて、山の中にある部落の防空壕へ行こうとした。その時、私は「お父ちゃん行くないうた」と煮たじゃがいもを両手に持って駄々をこねた。それでも大きいリュックサックに着物、食物等を入れて、無理矢理に連れていかれた。
 壕には大勢の部落の人が来ていて、とてもにぎやかだった。中で一時間位たった頃、部落長が「唯今、爆弾が落下し、山崎さんの家全滅」と言った。私はその時の母の顔は見ていなかったが、隣の叔母さんが「山崎さん、山崎さん」と呼ぶと、母は消え入るような声で返事をしていた。
 やがて、空襲警報が解除になり、母と私と妹が外に出てみると、家はつぶれて、木材の山だった。その瞬間、私の頭に写ったのは二つ、三つの大きい消しゴムだけだった。どうしてそんなものを考えたのか、今でも私には分からない。
 父が工場から帰って、どういう顔をしていたか、何と云ったか知らない。とにかく爆弾の後は悲惨だった。私の帯が電線にかゝって風にゆれていた。学用品はバラバラに飛び散り、それを近所の子がひろっていた。乳母車が土の中から出て来た。どれもこれも土がまみれついていた。それより一家が無事であった事が、せめての倖せだった。
 私の家の隣は、一家6人生埋めになり、死んでしまった。おばあさんだけ生き残り、写眞を見て狂気のように町を泣き乍ら歩いていた。
 この爆弾は島で唯一の工業、造船所に落とす事が目的であったが、風の方向の変化で、不運にも、家に落ちたのである。
 それから、20日後、あの恐ろしい、人類の敵ともいうべき原子爆弾が広島に落とされたのである。
 あの頃の私は、小さくて、戦争のすさまじさは知らなかった。今では誰も戦時中の苦しみを話す人はいない。しかし私は、あくまでも戦争を憎む。害を受けたのは私達だけでない。戦争に参加したすべての国―たとえ、勝った国であっても死者、傷害者は生まれる。戦争―それがどんな正しいものであっても否定する。いや全人類が否定すべきである。

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