父のアルバム【32】第四章 新しい出発

次兄の大病という家族の危機を乗り越えた行に転機が訪れる。昭和29年、三庄保育所が新築移転されたことに伴い、因島市初の女性管理職所長として就任した。私が小学校3年の頃である。

青木行(あおき・いく)は住む椋浦から勤務先の三庄に巡航船で通った。しかし、船の終便に間に合わないことが度々あったようで、その場合は、暗い険しい峠道を帰路につく彼女を父が迎えに行った。父が懐中電灯を振り回し、「おーい、おーい」と合図を送ったという。

私と言えば、この頃の記憶がほとんどない。覚えているのは、血圧が高くなり体調を崩した行が自宅に一時期帰らなくなったことがあったことだ。どこかの病院に入院していたのであろうか。

父はアルバムのなかで、「全力を傾けた三庄保育所時代」と記している。そして、保育所の関係者による弔文を貼り付けている。そのなかで行の保育実践が具体的に述べられていて、非常に興味深い。

―(前略)歴史の浅い保育所にとって、30年前は未だ保育体制の整わない中で当時から養護と教育の一体化した保育の方向をはっきり示し情熱をもって私達をご指導下さいました。

昭和29年頃と言えば戦後まだまだ社会情勢は不安定で、子どもたちは服装や頭髪の乱れもひどく、すり傷、切り傷、できものなども放置され、食生活も貧しい状態でした。その中を先生は少しでも豊かな生活の出来るよう創意工夫されて、その指導方法を私たちに教えて下さいました。

バリカンを買って散髪、傷の手当、保育所での入浴は保母と子どものふれ合いの場でもありました。さっぱりときれいな顔をして、うれしそうに帰っていく子どもの姿を忘れることができません。

当時、誕生日を祝う習慣は家庭にはあまり見られないときに、誕生に当る子どもたちの一人一人の長所をほめ励まされ、あとで子どもたちの喜ぶ行事食を頂く誕生会を、子どもも保護者も楽しみに待った状態で今も各保育所で受けつがれております。

おやつの給食をはじめたものの副食も給食実施にあたり当時一人一日の給食費では如何ともしがたく、保護者会の協力を得て他の保育所にさきがけ週二回実施する事が出来たのも先生の積極的な働きのたまものでした。

厚い信仰心をもとに常に先進的な考えをもたれ、自ら進んで行動された先生には常に頭の下がる思いでございました。(後略)

行の葬儀には父の教え子の男性が短歌を詠んでいる。

語り方 歩き方にも 節度あり 明治生まれの 所長たりしが

行が保育所長の退職を申し入れ、家庭に入るのは私が中学校一年の時である。したがって私は、行の業績に対して無関心で、何も理解していないのである。せめて、弔文や短歌を読むことで行の業績を偲んでみようと思う。

三庄保育所時代の行。昭和30年12月23日撮影。

(青木忠)

[ PR ]ピザカフェつばさ

因島の美味しいピザ屋「ピザカフェつばさ」

みょーんと伸びるチーズとこだわりの生地を溶岩石窯で一気に焼き上げます。
テイクアウト歓迎。

尾道市因島土生町フレニール前(旧サティ因島店前)
TEL 0845-22-7511

平日・土曜日 11:00~22:00
日曜日・祝日 11:00~14:00