碁打ち探訪今昔四方山話【18】消えた秀策揮毫の碁盤 百五十年ぶりの里帰り

掲載号 11年07月09日号

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栴檀(せんだんは)二葉より芳(かんば)し―と、秀策幼少のころより、芸州浅野藩公お抱えの棋士が、お殿様(三原藩主、浅野甲斐守忠敬)から下賜された碁盤をやすやすと手放すことは考えられないのですが、ともあれ180年ぶりに本因坊秀策囲碁記念館に戻ってきた碁盤には添え書きがついていました。

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秀策揮毫の碁盤を寄贈する島田夫妻

下賜碁盤の由緒(読み下し)

從 三原君賜所也―(第十代三原城主浅野甲斐守忠敬から賜った)と添え書き、秀策揮毫の「爭先決勝 国手神機」と書いてある。

是れが、我が藝藩三原城司浅野氏より、叔父秀策に下賜された、碁局(碁盤)の銘なり、秀策没後、因嶋重井村里正(村長)村上八太郎勝延が、これを蔵す。私は、秀策が没する年(文久2年8月10日(1862))に生まれたので、其の由緒を記述しようにも素より、其の詳細を直接知ることはできません。唯旧記に戴す所と我が家の口碑(こうき=世間の言い伝え)とに拠り、其の小伝を記述す。

昭和5年庚午仲秋
六十九叟(おきな)
北 桒原信司幣 誌

添え書きにある桒原信司氏69歳の記述について桒原家の家系図には見当たりません。しかし、信司氏と名記、秀策が叔父であることを記述していることから秀策の兄、和三の長男寅四郎氏=御調(みつぎ)郡内小学校長歴任=の別名であるとも考えられる。そして、尾道市教委の調べによると、この碁盤は三原城主から秀策に下賜され、桒原寅四郎氏から因島重井町の庄屋、村上八太郎勝延氏が譲り受けたものと思われます。

新たに分ったことでは、村上八太郎勝延氏は、桒原家から母の実家である重井村の村上家を継いでおり、そこへ寅四郎氏の姉政代さんが嫁いでいるということが分りました。こんな因果関係などから秀策没後、遺品の一つとして家宝のお殿様下賜の碁盤を譲り受けた村上家からどういう経路をたどって180年ぶりに東京から因島へ里帰りしたかについて紡いでみましょう。

(庚午一生)

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