碁打ち探訪今昔四方山話【17】消えた秀策揮毫の碁盤 百五十年ぶりの里帰り

掲載号 11年07月02日号

前の記事:“因島にて…Ⅱ 地域から見えるもの【7】地震学者の警鐘(5)
次の記事: “3.11後の水無月

 東京在住の島田医師から寄贈された秀策揮毫の碁盤から、これまでの遺品研究保存を集録した秀策の甥(兄和三の長男)桒原寅四郎氏の「本因坊秀策小伝」にも見当たらなかった新事実が浮かび上がりました。

 天才児秀策の幼名は虎次郎。芸州三原藩主浅野甲斐守忠敬が後盾となって九歳にして江戸・本因坊家へ囲碁留学。名を安田栄斉―秀策と改名。のちにお城碁十九連勝という前人未踏の偉業を残し「秀策流」という近代碁の基礎の数々を残し幕末を駆け抜けた。34歳という若さで、この世を去ったが、天保8年11月、9歳で浅野家の家臣寺西右膳に連れられ囲碁の勉強のため江戸・本因坊丈和の門をたたき、文久2年8月10日(1862)午の下刻(午後1時)中道に倒れるまで4度、因島外浦町の生家に帰郷している。

 その最後の帰郷の年は、といえば江戸幕府も末期に近く、幕府の威令漸く行われず、日本周辺はにわかに騒がしく、外国船の来航もひんぱんで、内憂外患の時を迎え、囲碁の如き技芸などの振興といったことは国情に適さない時代に向っていきました。

 こんな時代でしたが秀策は進むべき道に希望を捨てず、棋道の研究、後進の指導につとめ嘉永年間を送り、安政4年に彼の29歳の新年を迎えます。そして、4度目の帰郷を思いたち江戸を出発しました。お供は恩師本因坊丈和の二男葛野亀三郎三段(秀策の妻花子の弟、後の方円社々長中川亀三郎八段)を同道しての旅でした。この帰郷が最後のものとなったわけなんですが、彼自身が「これが最後と思う予感をしていたのでは…」と思われる節が多く残っています。

 あれほど心よく思っていなかった石谷廣二(廣策)に「囲碁十傑」を書き贈り、生家の碁盤裏に「慎始克終 視明無惑」(始めを慎み終に克つ。視ること明らかに惑なし)と書き残した。

 このほかに、もう一つの碁盤が並べられ「争先決勝 国手神機」(先を争い勝を決め、そのすぐれた名人の手段ははかり知ることができない)とでも読むのでしょうか。
この二つの碁盤が、安政四年丁巳初秋に生家の一室で書かれたという話はこれまでに聞いたことがありません。

 このほか、この帰郷でしまなみ海道沿線では瀬戸田町の谷本篤さんの祖父の兼次郎さんに書き贈った「戦罷両奩収黒白 一坪處有虧成 丁巳晩夏 秀策」(戦いが終わり、二つの小箱=碁笥=黒と白の石が片付けられる。碁盤の上には、どこにも傷ついたり欠けたりしているところは一つもない)という秀策の漢詩も平成6年5月に見つかっている。そして今回の碁盤に添え書きされた記述が興味深い。

(庚午一生)

関連書籍

E