時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【35】郷里の父に宛てたもの(その3)

掲載号 09年05月16日号

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尾道人物誌土居咲吾(1)

 本因坊秀策の生涯について時代を追っての記述をちょっと横道にそれますが、囲碁とはかかわりのない人間関係の描写、考察を述べることをお許し願いたい。

 表題の土居咲吾(どいしょうご)という人物ですが、名を長尾幸作(浩策とも書いた)といい天保6年(1835)尾道の中浜生まれで、万延元年1月、勝海舟が率いた渡米軍艦「咸臨丸(かいりんまる)」に福沢諭吉らと共に乗り組み米国に渡り西洋医学と英語を学び、その時の航海日記「亜行日記鴻目魅耳(こうもくかいじ)及び亜行記録」などを残しています。

 父は長尾俊良といい、芸州藩山県郡原村土居が原から尾道町中浜に移り住み医院を開業。幸作はその長男で天保6年10月生まれというから秀策より6歳若いことになる。父俊良は広島藩医、宍戸大俊に医の道を学び後に高野長英に蘭学を学んでいます。幸作は、この父の感化をうけ向学心篤く20歳で京都へ上り蘭学を学び、さらに安政6年(1859)24歳で江戸に出て薩摩藩の坪井芳州の門に入り蘭学を学び、この頃英語の必要を悟ったといわれています。

 そうした背景もあって咸臨丸アメリカ派遣の挙を聞くや百方奔走の結果、木村摂津守の従者として咸臨丸に乗り組むことができ渡米しました。正月に出航して10月には帰国。翌文久元年(1861)には語学力をかわれ浅野藩の内命により軍艦購入のため上海、香港へ渡航。これが密航として送還投獄されることになるという不運な目にもあいました。

 明治初年、三原藩松浜に三原洋学所が開設され、取締方を任ぜられ英語を教えていたがその後尾道に帰り江戸の福沢諭吉からの上京の誘いも断って医業に精励、英学塾も開いて尾道の子弟たちを教導、人材育成に尽した功績は大きく明治18年(1885)50歳で亡くなりました。

 この異色ある人物と秀策とのかかわりあいがあったことを書簡によって知ることができたのでこの項を設けたわけで、その書簡というのが、嘉永7年11月23日付で書き送った尾道の大旦那橋本吉兵衛(静娯)と隠居の橋本長右衛門宛のものです。

 「前略、私儀無異はばかりながら御休意下さる可く候。当年御用も滞り無く相勤め候間即ち写し差し上げ申し候。四通の中壱通は栄助へ御届け壱通は長尾へ御届け願い上げ候(後略)」とある。この長尾は父俊良のことで「御用」とは御城碁出仕を指していることは申すまでもないことです。この文面から察するに秀策から「碁譜」を送ってもらえる間柄がうかがえます。(庚午一生)

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