ふたりの時代【42】青木昌彦名誉教授への返信

掲載号 09年05月02日号

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70年安保闘争と私(8)

 10月8日の羽田闘争からほぼ一カ月後の11月12日、全学連は再び羽田闘争を決行する。第二次羽田闘争と呼ばれている。佐藤栄作首相はジョンソン大統領との日米首脳会談のために羽田空港から飛び立とうとした。敗勢を深めるベトナム情勢のなかで、安保改定期である1970年に向けての政治的意思統一を図るものと見られていた。

 情勢はいっそう深刻化し、訪米前日の11日、エスペランチストの由比忠之進さん(73)が首相官邸前で、佐藤内閣のベトナム戦争加担に抗議して焼身自殺をとげた。

 釈放されて間もない私は、この日の闘争においても現場責任者として指揮をとった。後に述べるがこの闘争は、今はなき父・松本隆雄との思い出に固く結びついている。

 「七十年安保闘争史略年表」(ホームページ)によれば、この日の闘争について「佐藤訪米実力阻止羽田闘争(第二次羽田闘争)。全学連三千人は、京浜急行・蒲田駅から大鳥居駅付近で10時間にわたり阻止線をしく機動隊と激闘。機動隊は、10分間で77発のガス弾を発射。」とある。

 10月8日の事態に懲りた警備陣は、圧倒的な警備体制を敷いた。東京都公安委員会は一切のデモと集会を許可しなかった。蒲田駅から羽田空港駅に通じる京浜急行穴守線を半日間ストップさせた。付近の商店街は軒並みに営業停止になった。そうしたうえで警備陣は、大鳥居駅周辺に何重にも阻止線をはった。今では常態化している警備側のジュラルミンの盾は、この日初登場した。新品のそれが銀色にピカピカ光っていた。

 全学連は、数本の数メートル大の丸太で対抗した。それぞれを10名くらいの学生が抱え、阻止線に向かって突入していった。それを合図にいたるところで大乱戦になった。それからどのくらい経ったであろうか。私は機動隊に取り囲まれ、うずくまり、警棒の乱打に身を任せるしかなかった。警棒は初体験で、「結構、痛いものだなあ」と覚めた神経で耐えていた。そうしていられたのはヘルメットのお陰で、それだけは剥がされないようにと必死だった。

 これは特製のものではなく、作業用のありふれたものである。だから再び住むことになった因島の造船所や土木建築現場で同じヘルメットのお世話になった時には、懐かしさがこみあげてきた。

 現場で検挙されて警視庁巣鴨署に留置された。当時はとげぬき地蔵のすぐ近くにあり、そのざわめきが取り調べ室にいても聞こえた。普段通りの留置場の生活で、法律で決まっている23日間を過ごした。黙秘権を行使し、当然のごとく起訴されるのを待っていた。ところが、告げられたのは「釈放」という言葉だった。あっけに取られているうちに、外に出てみると寂しげな父が待っていた。これもまったく予想できないことであった。

 事態がある程度呑み込めた。家族が誰かに頼み込んだのだと直感した。もちろんこのことは、父にも、ほかの家族にも問いただしもしなかったし、誰も語ることもなかった。ふたりは無言のまま近くの喫茶店に入った。内心は複雑であったが、遠路はるばるここまでやってきてくれた父への感謝の気持ちが素直に湧いてきた。

 ふたりは向かい合って座ったが、ほとんど言葉を交わすことはなかった。父の想い、わが子に言いたいことは、充分すぎるほど分かっていた。また私がそれに応ずることができないことも自覚していた。別れの前に父の手をしっかりと握りしめ、父もしっかりとそれに応えてくれた。無言のまま互いに手を握り合って涙するだけであった。

 時間がきて私はひとりで池袋方面に向かった。今思うに父はその後、どうしたのだろうか。釈放は夜であったから旅館にでも泊まったか、それとも夜行で因島に帰ったのか。その日のことを語りあうことは一切なかった。この時の父・隆雄の姿は、今や父親になった私の心中に宿っているかも知れない。

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