産経新聞記者時代の同僚「俵萌子」に捧ぐ

掲載号 08年12月06日号

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 この欄で記者時代の知己の追悼記を書くのは、因島と縁があった司馬遼太郎先輩(本名福田定一)についで二人目が11月27日肺炎のため亡くなった女性評論家、俵萌子(77・本名中野萌子)になった。

 司馬さんは、因島の縁戚である橋本組の関係。萌子は産経新聞同期入社という間柄。二人とも大阪生まれで大阪外語大卒後、産経新聞文化部に籍を置いた。昭和28年以来の故事来歴、エピソードは枚挙のいとまがないが、入社当時の萌子さんは美人で才女。男性記者の憧れの的だったが、高嶺の花でもあった。当時としては晩婚。その馴れ初めは彼女の口から聞いたことがあるが、離婚後も俵の姓を名乗った。

 戦後、女性記者の先駆けとなり、結婚や子育て、新聞社を退社後は教育や女性問題の評論、エッセーに活躍。不幸や災難を糧として再起する名人でもあった。2年前のこと、彼女の呼びかけで結成した乳がん切除グループの温泉旅行「皆んなで一緒にドボンは大成功」と語る得意顔が最後になった。合掌。

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