ふたりの時代【21】青木昌彦名誉教授への返信

掲載号 08年11月15日号

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源流を訪ねて(4)

 私は出身の広島大学の60年安保闘争についてほとんど知らない。ただ文学部の学生で、当時の全学連中央執行委員であった千葉喬之氏から強い影響を受けたことは今でも忘れることができない。

 今年1月に東京で青木昌彦氏に会見した際、千葉氏のことが話題になった。しかし私は40年以上も連絡をとっていなかった。不安になり電話したところ夫人から「3年前に亡くなりました」と告げられた。享年66歳であった。3月下旬ようやく広島市の自宅を訪ね、仏壇にお参りできた。遺影の笑顔が印象的だった。

 私は強い影響を受けたが、彼自身についてほとんど聞いたことがない。60年安保関係の文献のひとつに、「ダンプで乗りつけ借金」という故千葉氏の文章を発見した。経歴を初めて見た。そのまま記してみよう。

 ―1959年広島大学入学。59年日本共産党・ブンド加盟。59~60年教養部学友会委員長。59~63年広大自治会連合委員長。62年革共同入党。職業・97年まで高校教師。

 さらに本文のなかで、「結局ぼくたち新入生がすべての役割を引き受けることになった。ぼくは60年安保闘争とブンドの結成拡大を進めていった」と語っている。そうか、やはり入学早々の千葉氏が全学的な闘いを組織して行ったのだ、と思った。そして、文章の終わりの「最後に、今も心に残っていることだが、原爆で祖父をはじめ多くの親族をなくしたぼくは、…」が、目に留まった。

 彼は中学・高校とも広大付属に進み、そのころから長田新の「原爆の子~広島の少年少女のうったえ」の編集・刊行を手伝った。それは岩波書店から出版され、世界十数カ国語に翻訳された。さらに新藤兼人監督によって映画化される。同書は原爆を体験した少年少女たちの手記を集めたものだから、夢中になったのだろう。夫人の話によれば千葉氏の原爆体験へのこだわりは強く、結婚式も本人のたっての希望で平和公園内で挙げたという。

 彼の「人間主義」は強烈であった。私が大学2年で、教養部学友会書記長のころ千葉氏を含めて何人かで学生自治会運営の路線について議論になったことがあった。私の考えは、あくまでも国家・政府を相手にした政治闘争を中軸にすべきであるというものであった。だがそれに対して、「学生の身の回りのより身近の問題こそ中心課題にすえるべきだ。そうしなければ自治会は駄目になってしまう」という反対意見もあった。例えば、「政治闘争よりトイレットペーパーを大学キャンパスに常備することが大切である」というものである。

 そこで千葉氏は言った。「人間にとって一番身近な問題とは何だ。いかに生きて行くかという問題ではないのか。政治闘争はその点を問うているのだ」と。こうして彼は、私の方針を全面的に擁護したのだ。この主張の鮮烈さは今なお私の精神を捉えて離さない。依然として私の価値観の根幹に座っている。

 今思うに彼の「人間主義」の出発点は、幼いころの原爆体験にあるのではなかろうか。1939年生まれというから6歳のころだったのだろう。自身は疎開していて助かったという。彼の戦後精神は廃墟のなかで育まれていったのだろう。

 私たちが過ごした広島大学千田町キャンパス跡地には、被爆建物として「旧理学部1号館」が今も残っている。広島文理科大学時代からのものである。井伏鱒二の名著「黒い雨」にもキャンパス周辺の場面が出てくる。1956年9月、大学正門の道路を挟んで斜め前に日本赤十字社原爆病院が建てられた。学生はその前を通って通学するのだ。今こそ千葉氏の話を聞きたいと切に思う。しかしもう彼はいないのだ。

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