時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【18】いくつかの美点(その1)

掲載号 08年11月01日号

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 日本囲碁史のなかで後世「碁聖」の名を冠せられ、本因坊跡目でありながら「本因坊」を名乗って異論をとなえる者がいない秀策の名声。彼が、将軍出座観戦の御城碁で前人未到の十九連勝の記録。碁道に於けるあくなき研究の執念によって定型化された、いわゆる「秀策流一・三・五」の布石定石などによるもので、碁家としては至極当然のことといえるでしょう。

 特に、安政四年が最後の帰省となった因島外浦の生家浜満屋で安芸国(広島)能美島生まれの棋士石谷広二(のち広策と改名、当時二段)と対局後に書き与えたといわれる「囲碁十訣」は凡俗の成し得るところとは思われないが、けだし金言である。最近、政治経済界で「孫子」「呉子」「韓非子」などとともに兵法書として用いられている。ある若い経済界のグループの集りに、この「囲碁十訣」を紹介したところ商店経営の指針や社訓にしたいと喜ばれたことがある

囲碁十訣

不得貧勝(むさぼれば勝ちを得ず)

入界宜緩(界に入りてはよろしく緩やかなるべし)

攻彼顧我(彼を攻めるには我を顧みよ)

棄子争先(子を捨てて先を争う)

捨小就大(小を捨てて大につけ)

逢危須棄(危うきに逢えばすべからく棄つべし)

慎勿軽速(慎んで軽速なるなかれ)

動須相応(動かばすべからく相応ずべし)

彼強自保(彼強ければ自らを保て)

勢孤取和(勢い孤なれば和を取る)

 晋の王積新が作った古来著名な格言で、秀策自身の対局の戒めとしての座右銘。一生を通じての囲碁の信条として守られている跡が読み取れると専門棋士はいう。

 このときの石谷は、秀策没後35年を経て明治30年に秀策の打ち碁百局を集録した「敲(こう=たたく)玉余韻」の巻頭に囲碁十訣を載せている。

 この石谷という人物だが、秀策の書簡の中に出てくる人物評価はよくないようだ。ここでは広島市の南にあたる同郷の能見島出身、瀬越憲作名誉九段の言を紹介しよう

 彼は、文政元年生まれで秀策より11歳年長。しかし、江戸に出て本因坊家に入門したのは、秀策の入門より5年後の天保十三年であった。明治9年に五段を免許されたが、棋力よりも博打(ばくち)の才に富み、賽(さいころ)の目を思いのままに出すことができた。このため秀策は、彼に信頼をおいていなかった。しかし、石谷は秀策の包容性に甘えていたが、秀策死後になって尊敬と恩義にむくいるために半生を秀策顕彰に捧げた。

(庚午一生)

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