後向き階段下るをいぶかりて人ら笑えど楽な足どり

掲載号 08年02月16日号

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渡辺スズ子

 覚醒という言葉があって、目から鱗が落ちるという意味も持つようだ。作者は階段を下りるのに後向き、つまり階段を上る姿勢で下りられた。普通、このような姿勢は幼児パターンとされ、生活の知恵者と評される熟年の方には凡そ縁遠い。

 生活の知恵とは、一種の予知能力を含み、ときに外れる。外れた場合、人は老婆心というが、揶揄ではなく、その大部分は温かい愛情表現だ。

 知恵者のかなしみは人の心が見えることで、何故後向きかとの訝りの前で立ちすくまれた。しかし、転機はその直後に訪れる。

 「私はわたし、どう思われてもよい」と反応されたのだ。即実行がモットーらしい作者は人の訝しみの中で己を知る者は斯くの如しと演技され、演技中に心に余裕が生まれ、余裕は足どりを楽にした。

 足どりが軽くなると人の訝しみも消え、同時に作者は心に自由を得た。その瞬間目から鱗が落ち、ある物があるがまま見えるようになったのである。

 人の能力には個人差があり、自分の個人差に気付く能力を、才能と呼ぶ。この説によれば、才能開花のためには内省的な生き方が適していると思われる。

 作者の覚醒もこの例に漏れず、自分に適した後向き下りを選ぶなど、内省力を深められた。おばあちゃんの知恵には、このような内省に支えられた説得力が求められてきた。

 だから、おばあちゃんと親しみをこめて呼びかけられるには、長年月の気配りと内省があってのことで、後向き下りには喝采が集まったことであろう。

 このような家族劇場に幼児客が居れば、おばあちゃんのキラリと光る資質に触れた瞬間、瞳を輝かせ、視線を未来に向けたに違いない。(文・平本雅信)

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