空襲の子【32】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 岡野宣行さんの無念(上)

掲載号 07年04月14日号

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 昭和20年7月28日、海軍の軍務に就いていた岡野宣行さんは、日立造船因島工場に勤めていた父・孫三郎さん(48)が空襲で死んだことを知らなかった。戦局の厳しさが増すなかで、家人も宣行さんが生きているとは思わず、連絡をしなかった。前年の12月4日、母・カネコさん(41)が船の遭難でなくなった。その影響もあったのだろう。

 母は、大阪工業高校で学ぶ次男に食料を差し入れようと、尾道港から海路、大阪に向かう途中の明石沖で遭難した。乗船していた石炭船が沈没し、遺体はあがらなかった。遅れ気味の鉄道を選ばず、大阪に直行する船便を選んだ悲劇であった。宣行さんのもとには叔母からの手紙で訃報がとどいた。しかし軍務ゆえに帰省することは許されなかった。

 父の岡野孫三郎さんは芯出工場の職長。総数約20人の職場。他に動員学徒尾道商業高生10人がいた。同一職場としては最大の7人が亡くなった。からくも避難した仮防空壕が爆撃の直撃を受けた。全員が圧迫死であった。

 長男である宣行さんは、父の遺体を引取りに行けなかったこと、葬儀を自分でだせなかったことへの無念さが今なお消えない。「親不孝をした」と繰り返し語る。

 15歳で占部造船(現在の内海造船田熊工場)に就職した。昭和19年10月、海軍に志願することになった。大竹海兵団に配属。それから横須賀工機学校。つづいて呉海兵団。さらにもはや乗船する艦船がなくなり、比婆郡の山中で任務に就いた。そこで原爆投下を聞いた。犠牲者救援のため広島市に派遣されることはなかった。横須賀・呉には、移動直後あいついで激しい空襲が襲った。今こうして生きておれるのは、両親が身代わりになってくれたからだと、宣行さんは信ずる。

 父とは海軍に志願して以来、一度も会えていなかった。呉に父親をよんだことがあった。それでも会えなかった。突然の移動命令がでた。わずか数時間の差である。息子に会うことが叶わなかった父親が呉駅に向かう姿を見たと、知人が後になって知らせてくれた。落胆し寂しそうであったという。

 志願兵の岡野宣行上等兵は8月15日の終戦になっても軍務を解除されなかった。終戦から2、3日たって父の死を知ることなく、広島駅から貨物列車に乗って呉に向かった。広島市の惨状を目撃した。呉も焼け野原であった。そこからさらに門司港警備のために九州に行き、2カ月の任務についた。それから大竹、そして舞鶴に向かい、駆逐艦「雪風」に乗船した。

 休暇をもらって因島に帰省したのは冬になってからである。たどり着いた尾道桟橋で、知人が父の死を教えてくれた。村役場発行の死亡証明書を持参して舞鶴にもどり除隊を申請、1週間後ようやく任務解除になったのだ。

 家族も親族も長男はおそらく死んだのだろうと、あきらめていた。筆者にはとうてい想像できないが、終戦とはそのような大混乱の時期であったのであろう。

 長男・宣行さん20歳。両親はすでに今はいない。歳の姉を筆頭に、一番下の妹4歳。7人の兄弟姉妹の戦後が始まった。

岡野孫三郎さん
在りし日の岡野孫三郎さん。当時流行の帽子姿が印象的である。

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