ふるさとの史跡をたずねて【424】小学校史④その他の村々

小学校史④その他の村々

明治5年8月に公布された「学制」は、明治12年9月に「教育令」が発布されて改正される。それまでに因島内各村でも次第に小学舎が設置される。しかし、『因島市史』では重井村と田熊村のことだけで、その後のことは書かれていない。書けなかったのではなかろうか。それぞれの学校には学校史があるのだが、それを見てもどこで寺小屋・私塾から「学制」による公教育になったのかわからない。

その公教育の学校の一般的な名前も、私は小学舎と書いたがいつまで一般的であったかわからない。公立学校という概念もなかったはずである。だから学校名だけから私塾と区別できない。その私塾を前身として学校の歴史に入れる所も入れない所もある。さらにまた、多くの学校が「学校沿革史」を典拠に記してあるのだが、その沿革史も、しばらく後に書かれているだろうし、用語も変わる。そんな状況で場所・名前・教師も同じままで私塾から公教育に変わった場合もある。また、それを記録する人はおそらく江戸時代に生まれ育った人である。学制公布以降も私塾ができたところもあるだろう。

その混乱の様子を示すのが椋浦村の場合である。小学校になるのが学制公布より5か月早く「不可解である」と『椋浦学校史』18頁に記されている=写真=が、今風に解釈すればたとえ形が揃っていても法律施行前は私塾とすべきで、最初に記録した人の誤りであろう。

…だから『因島市史』がそれ以上書かなかったのは賢明であった。参考までに、各村の状況を示す。

  • 大浜村 明治6年酒井教蔵宅に「養生舎」設置。明治8年見性寺に小学校を置く。
  • 中庄村 明治6年1月6日小林敬哉宅に「久敬舎」創設。3月19日成願寺に「温和舎」創設。
  • 外浦村 明治7年3月15日小学校設置。
  • 鏡浦村 明治5年鏡浦学校が設置され「開郷舎」と称す。
  • 椋浦村 明治5年3月15日「明分舎」が小学校になる。
  • 三庄村 明治8年8月1日創立、「六行舎」と称す。(明治11年12月まで)。
  • 土生村 明治6年3月1日対潮院に創立、土生学校と称す。

※参考にした文献を略記する。

『大浜小学校閉校記念誌』、『中庄村史(昭和40年)』、『椋浦学校史』、『ふるさと三庄』、『土生小学校創立120周年記念誌』

(写真・文 柏原林造)

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