カナダ紙幣になった日本人「キミコムラカミ」に学ぶ 因島南小学校でALT授業

因島南小学校(衛藤朋弘校長)で2月22日、カナダ100ドル紙幣の肖像写真になった、因島田熊町にルーツをもつ「キミコ・オカノ・ムラカミ」の波瀾万丈の生涯を学ぶ授業があった。

6年生(61人)は現在、英語の授業を取り入れているが、外国語指導助手ALTのマイケル・プジィオさん(ポーランド出身)と同校教員・土生高裕さんにより、日本語と英語で解説が行われた。

準備されたプロジェクターにはキミコ・オカノ・ムラカミとその家族が写る当時の写真やカナダ紙幣の写真などが映しだされ、土生先生によって波瀾の生涯についての説明が日本語であり、ノートに忙しく書き込んでいた。

その後で、マイケル先生による簡単な英文の説明に、児童たちは知っている単語に声をあげたり、先生の声かけに英語で答えたり、にぎやかな英語の授業となった。

キミコ・オカノ・ムラカミ(村上君子。旧姓岡野)、1904年生まれ、日系カナダ人二世の開拓者。1997年没。2001年、ソルトスプリング島通貨財団が設立され、島内だけで流通できる地域通貨ソルトスプリング・ドルを発行した。額面はカナダドルと同額で、100ドル紙幣肖像にキミコが選ばれた=写真㊤。北アメリカ大陸においてアジア系人物の肖像を印刷した初めての紙幣である。

因島にルーツを持つ日系カナダ人二世 村上君子(キミコ・オカノ・ムラカミ)さんの生涯

キミコ(君子)は1904年(明治43)日本人移住者・父オカノクマノスケと母リヨ(因島田熊町出身)のもとに生まれた日系二世。日本にルーツをもつ日系カナダ人が多く住む地域で暮らしていた。一家は船で生計を立て、ソルトスプリング島で暮らす。「移民県」と言われた広島県からはハワイ、ブラジル、カナダなどに移民として渡り働いていた。

キミコ8~15歳、キミコの祖母オカノカルに身を寄せ、妹サヨコと共に「田熊小学校」に通う。

15歳のキミコ

1919年(大正8)、家族が住むソルトスプリング島に帰る。

鶏に餌をやるキミコと父・妹(1920年撮影)

1923年(大正12)19歳のキミコは島で初めてのドライバーになる。キミコオカノファミリーは、漁業から農場経営に転換し、トラックで鶏卵を運び帰りには飼料を積んで帰ることをしていた。

1926年(大正15)重井町のムラカミカツヨリ(村上勝頼)と結婚。「身体の大きな好男子で、冠婚葬祭には度々帰国し、実家に滞在していた」と当時を知る人はいう。

カツヨリ・キミコ夫妻と子供たち。1938年夏撮影。

1941年(昭和16)太平洋戦争勃発。反日感情が高まり、日系人への差別・迫害激しくなる。夫のカツヨリは連行される。さらにキミコと5人の子どもたちは日系カナダ人たちとともに強制収容所に送られた。

 

1954年(昭和29)キミコ50歳、一家は10年ぶりに故郷のソルトスプリング島に戻り、連れて行かれた日系カナダ人で最初に帰って来た家族であった。

戦後4年を経て、戦時中の規制が解かれ市民権が与えられたが、開拓地は没収され奪われたまま。しかし一家が人種差別と偏見と闘いながら、忍耐と勤勉な労働を続け生活を立て直していく姿に多くの人々は尊敬と信頼を寄せるようになった。

カツヨリは1988年死去。キミコは1997年93歳で死去。

結婚60周年を迎えたカツヨリ・キミコ夫妻(1986)

2003年(平成15)キミコの肖像写真(1992年撮影、88歳)が使われた100ドル紙幣が発表された。北アメリカにおいて、アジア人の肖像が使われた初めての紙幣だった。

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