父のアルバム【14】第三章 教師の信念
1991(平成3)年7月31日。この日は鮮明に記憶に残っている。46六歳になった私は、生まれ故郷に帰ってきたのである。
私のUターンの発端は、そのおよそ六年前の母の他界であった。父はひとりぼっちになった。
葬儀後、憔悴した父は私の妻にも電話で愚痴をこぼすようになった。
「女房に先立たれた男は3年もつかのう」
三周忌が済むと愚痴は、いっそう頻繁になった。
父は、「淋しいから帰ってきてほしい」と決して言葉にはしないが、電話の意図は明白だった。私が決心を固めるにはさほど時間を必要としなかった。
父との同居は高校以来のことで、戸惑いもあったが新鮮だった。そしてそれは、私の人生の大転換をもたらしたのである。とりわけ大きかったのは、父と息子との関係が蘇り、その会話が始まったことである。
父は私がUターンしておよそ7年後に死んだ。その間に父は私にかけがえのない人生上の指針を残した。
父はあえて、戦争末期にわが家を襲った爆撃をめぐる出来事を語った。ゼロ歳の私が今生きておれるのは、母と祖母が身を挺して私を守ったからだと告げ、そのことを決して忘れてはならないと命じた。それは私への「遺言」になり、私にバックボーンを与えた。
私は家族とその歴史を強く意識した。父母や祖父母の生きてきた歴史を知りたくなった。必然的に関心は、戦時・戦前のわが家の姿に集中した。
その時代に私の家族は生活をつづけていたのである。わが家族が生きた歴史として戦時・戦後をとらえたらどうであろうか。
その時代のわが家のあり様を知るには、父の足跡を追い求めるのが近道である。父は、昭和11年4月から敗戦後の昭和21年12月まで地元の小学校に勤務している。この時期、文字通り教育現場に心血を注いでいる。
私の独断ではあるが、父の教育者としての原点はこの時期にあると思っている。どのように時代と教育に立ち向かったのか、非常に興味深い。
残念なことだが、父の教育実践についてほとんど語り合ったことがない。今となってはそのことを悔いてもしかたがない。しかし、幸いなことに父は、数点にわたる文章を残している。どれも父ならではのものである。そして大量のアルバムの写真が何かを語っているはずだ。
それらは、いつか私の目に触れるだろうと予想してしたためられたものであろうか。なかには生前、父から譲ってもらったものもある。私は偶然でないものを感じる。問題は、父の遺したものを私がどのように受けとめ、理解するかであろう。
(青木忠)
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