ふるさとの史跡をたずねて【301】幸賀屋敷跡(今治市宮窪町)

本連載【300】番台は、時代も場所も問わないことにして、積極的に因島外へも出てみたいと思います。

幸賀屋敷跡(今治市宮窪町)

しまなみ海道の大島北インターチェンジで降りて左折する。因島からも海づたいに続く国道317号線である。その右側にある古い少し狭い道を行く。

今治市立宮窪小学校と今治市北消防署大島分署の間の路地を北に向かって少し入ると「義弘公遺跡幸賀館」と書かれた石碑がある。あの青影山の村上義弘さんである。

さて因島村上家文書の四は、大塔宮護良親王令旨というもので、元弘三年(1333)五月八日の日付があり宛先が備後国因嶋本主治部法橋幸賀館となっている。この家が因島の支配者で、この文書を持っていることが支配者の証である。村上義弘がこの家を継ぎ、大島に帰って住んだところが幸賀館と呼ばれたのであろうか。

宮本常一氏の『私の日本地図⑥』に箱崎の塩田に勤めていた人の住居として、「こうが市」というのが出てくる。箱崎と對潮院の間だと書いてある。因島の荘園の中心地は現在の中庄町や三庄町であったから、因島本主は東側に住んでおり、その家を継いだ者が南西部に住んだのかもしれない。それは村上義弘よりも今岡通任の可能性の方が高い。すなわち村上義弘の死後、因島本主は今岡通任が継いだ。彼らの夫人は姉妹だったというから、ありえないことではない。

以上が私が理解している村上義弘伝説の一部である。伝説だから語る人によって多少の相違がある。

写真・文 柏原林造

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