時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【22】幕末のお城碁と公方様(その3)

 御城碁の当日は、エントリーされた代表棋士たちが明け六つ時(あけむつとき=今の午前6時)江戸時代の大手門御開門と同時に登城、寺社奉行の指図の下に定められた御黒書院において対局が始まります。
 書院といえば、日本では書斎のことをいい、室町時代以後、武家・公家の邸で居間兼書斎のことをいいますが、ここでの黒書院は幕府の要人や諸大名の城中における書院で私的な日常の対面の場に使用されていました。表の最も奥にあり黒く染めた部材でつくられていたことから御黒書院と呼ばれていました。そして将軍様の御出座を願い、関係者が観戦するには手ごろな小広間であったようです。

碁打ちは親の死に目に会えぬ―

という言葉があります。
 なにしろ当時の囲碁対局には時間制限というのがありませんでした。対局によっては、列席の老中役の退出時刻になっても熟慮が続き終局しません。続きは、月番寺社奉行の役宅に下って打ち継ぎをするなどの不便を生じるなどが続き、関係者が詮議の結果「御城碁仰せつけられ候節は下打ち候様」と改められるようになりました。つまり、前もって対局した通りの手順を打ち直してご覧にいれるわけですから迫力や息遣い、表情などは伝わってこないわけです。
従って、毎年十一月六日に囲碁四家元で協議して手合を定め月番寺社奉行に届け出で十一日から十六日まで六日間をそれぞれの対局時間としました。この下打ちは厳重な監視のもとで行われ、城内に入ったその日から六日間は外部との交渉はいっさい断たれ、何人といえども面会、外出など許されません。
 もちろん、対局の場には関係者以外は人を近づけず、本人も対局終了まで何ごとがおきようとも帰宅は許されないことになっていました。世にいう「碁打ちは親の死に目に会えぬ」ということばはここから出たわけです。ところが、一般的には、碁に夢中になって何も彼も忘れ親の死に目にも会えぬ不孝者となるなど誤り伝えられているようです。
 いよいよ十一月十七日の本番当日は、将軍の出座の有無にかかわらず、御黒書院の間に所定の座を用意、特に公方様の敷物は改め、刀掛、火鉢など定められたところに置き、立ち合い人ら座席も定め、それはそれは厳粛なものであったと秀策は帰郷のさい話しています。そして、将軍出座があれば終局まで打ちあげて御覧に入れ、不出座の場合は終局が近づいた侵分(よせ)だけ打ち残して出座を待ち、用番の寺社奉行が終局を告げても出座がない場合は老中「御座敷廻り」の命令によって当日の関係者全員列席を待って終局したようです。このほか棋士たちの待遇や食事の献立に至るまで厳しく定められていました。
(庚午一生)

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