ふたりの時代【24】青木昌彦名誉教授への返信

学生運動私論(上)
 「ふたりの時代」の源流を探索していくと、ふたつの安保闘争の土台となった戦後学生運動とは何であったのか、調べたくなった。しかも、その渦中にあった者の体験談を通して知りたくなった。
 青木昌彦氏は、「私の履歴書 人生越境ゲーム」の「三人の先輩」で入学(1956年)したころの東京大学時代を描いている。

 ―(安保全学連のリーダーになる)に至るには、大学の授業ではなく、私より数年年上の3人の先輩学生から受けた知的刺激が圧倒的なドライブとなっていた。

 ―こんな具合で、東大では先輩、同輩からの特級の知的刺激に事欠かなかった。入学したての春学期こそ一応まじめに授業に出ていたものの、その後はクラス討論などで必要な時以外、教室にはご無沙汰となり、『資本論』『マルクス・エンゲルス全集』などを読みふけっていた。2年目ともなると非合法に潜り込んだ駒場寮と自治会室、歴研部室のあいだを往復するのに忙しくなった。朝になると、寮の歴研の部屋で寝ている連中をたたき起こし、東大駅前で通学生にビラ撒きするのに駆り出す恨まれ役も買って出た。またこれはと思う活動家をどんどんブンドにリクルートした。その中には後に著名な学者になったり、事業やマスコミ界で成功したものもいる。安保闘争のマグマが静かに蓄積されつつあった時代のことだ。

 青木昌彦氏の東大入学よりひと時代前の1950年、東京大学駒場キャンパスでの反レッドパージ試験ボイコット闘争について見てみよう。共産主義者同盟(ブンド)書記長で当時、東大教養学部(駒場)自治会副委員長の島成郎「未完の自伝」から引用してみよう。当時の時代情勢を次のように描いている。

 ―6月末、始まった朝鮮戦争は、あの戦争期を少年ながら体験した私たちの世代にとって、またもや「戦争の時代」を予想させ、朝鮮戦争勃発と前後してとられたアメリカの政策、共産党・全学連への弾圧、7月、急遽創設されることになった「警察予備隊=現在の自衛隊」の出現、そして学園のレッドパージと、押し寄せてくる状況は、思想の弾圧という、今一つの忌わしき過去を想起させ、学生たちに切羽つまった危機感を生み出していた。

 レッドパージとは朝鮮戦争と結合した日本共産党へ弾圧である。1949年7月、共産党中央委員24人全員への追放命令、機関紙「アカハタ」発禁を手始めに、1万2千人が追放された。そうしたなかで全学連は反レッドパージ闘争に決起し、大学人の追放を阻止した。島氏は東大駒場での試験ボイコット闘争を詳述している。
 8月末、全学連中央執行委員会は、全国の学生自治会に10月6日ゼネストを呼びかけた。東大教養学部自治会はストを決定し、全学生投票で9月末からの学期末試験ボイコット方針を大差で信任した。ストライキ2日目に警官隊が導入された。大学側は警官隊の力をかりて試験を強行しようとした。しかし、これで事態が一変した。試験ボイコットに反対していた学生たちを含めて学生たちは団結を強めた。

 ―矢内原学部長は学生たちに再度、学内に入って試験を受けるよう訴える。

 ところがである。この有様を見ていた試験強硬派の学生たちは、座りこんで動かないのである。何度うながされても動かない。「僕たちは、警官によって開けられた門を通ってまで試験を受ける気持ちはない!」と泣くような声で門内に入ることを拒否したのである。
 最後まで試験ボイコットに反対した前・寮委員長まで「私は学校側を信頼していた。しかし、今この事態を見て反省する。今から自治会の方針のもとに闘う」と宣言した。

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