因島郷土資料館元副館長の村田市郎さん「百歳万歳」昔懐かし連絡船模型展で祝福
おぼえていますか、土生港発の連絡船
おじいちゃん、おばあちゃんの頃は焼玉のポンポン船
父さん、母さんの時代はディーゼル船
何処へ行くにも乗った船
戦前戦後旅客船で賑わった土生港長崎桟橋
明治・大正・昭和の産業生活文化などあらゆる郷土資料の収集家として注目されていた因島土生町の村田市郎さんが17日で百歳「白寿」を迎えたのを祝い長男の村田和義さん=千葉在住=が制作した昔懐かしい土生丸、観音丸、尾道―土生―今治間の鉄道連絡船など23隻の模型船の展示会を次男の平田弘さん(TEL0845-24-1765)が企画、22・23・24の3日間午前10時から午後6時まで土生港中央駐車場一階ロビーで開く。
制作者の和義さんは因島から東京に出て50年余り。退職を機会に故郷の懐かしい思い出が残る木造船を父市郎さんが残した古い写真や子ども時代の記憶をたよりに5年をかけ23隻の模型船を製作した。
明治・大正・昭和の生活航路の軌跡
最も古いものでは明治41年(1928)就航の「第二土生丸」(木造15トン、焼玉機関馬力)=模型写真=。
ちなみに第一土生丸は明治35年、尾道―土生間を5丁櫓の一日一往復の定期便で、全長10尋(約18メートル)くらいの板張り屋根20人乗り客船だった。
大正4年に一気筒エンジンを搭載、エンジン音からパッパ船の呼び名がついた。同8年には因島病院前に鯖大師が建立され、11年に第十一土生丸(鉄鋼船35トン、蒸気機関)が就航。船内はカンテラ(石油ランプ)で明かりをとっていた。これも昭和10年ころからアセチレンガスを使い始めた。
昭和40年頃までは木造船が多く、村上造船所建造が大半を占め、このほか因島木船、釣島造船、岡野造船建造の船もあった。
文人墨客偲ぶ船旅のよすが
船が唯一の交通手段であった島しょ部住民にとって懐かしい思い出は語りつきないだろうが、かつて林芙美子、今東光、司馬遼太郎など文人墨客や政治、経済界の有名人もこの船を利用した。その船旅のよすがを偲ぶ手助けを村田兄弟の「なつかしの模型船展」がいざなってくれるだろう。
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