芸予に残る被爆犠牲者の足跡【3】

終戦70周年記念特集 弓削商船高等専門学校学芸部の調査・研究
芸予に残る被爆犠牲者の足跡【3】

商船学科 濱本桂太(4年)、森光勇介(4年)、滝川鉄也(3年)

麓忠義さんが寄宿舎に帰着してまもなく、舎監の妹尾萬左衛門先生(英語教師)から1年下の松下秀一郎さんを、愛媛県弓削村の自宅まで連れて帰って欲しいと言われた。

当時、被爆負傷者は、校庭に掘っていた防空壕の中に寝かされていた。松下さんは、顔をやられていただけで、何とか歩けるので、赤尾さんと二人でつれて帰ることにした。夏のことで何の治療もしていなかったので、すでに部分的に化膿していた。

徒歩で昼ごろに寄宿舎を出て、御幸橋を越えて途中の陸軍の兵器廠に立ち寄り医務室にいた兵隊さんに頼み込んで、松下さんの治療をしてもらった。治療は、顔一面に白い薬を塗って、あとは両目と鼻、口を出しただけで、包帯をぐるぐる巻きにした程度だった。

爆心地を避けながら、そのまま比治山の南側を東方面に向って歩き、向洋の駅を目指した。天気も良くて真夏のことで、とにかく暑かったのを覚えている。

途中で松下さんが喉が渇いたというので、家屋の焼けて水道管から水が出ているのを見つけると、何かですくって水を飲ませた。後で聞いた話では、この時水を飲ませなければ良かったかも知れない。また、途中から松下さんが疲労困憊で歩けなくなったので、しばらくは背負って歩いた。それにしても暑かったのは良く覚えている。

夕方明るいうちに(時間的には夕方の6時頃)向洋の駅にたどり着いて、そこから汽車に乗せてもらって尾道駅に着いたのは夜九時ごろだったように思う。そのまま駅前桟橋に野宿して翌日朝の船便を待っていたら、空襲警報が発令され、まもなくB29の爆音がするや、松下さんが非常に怯えて、なだめるのに苦労した。

「目の前が海だから、いざという時には船で沖に漕ぎ出せば大丈夫だ!」

「心配するな!」

と麓忠義さんが松下さんをなだめた。

そのうちに福山市が空襲を受けて、同方面が、夕焼けのごとく真紅に空を焦がしていた。

翌朝、土生丸が出るというので、それに乗って土生港へ渡り、昼ごろには弓削行きの船に乗せて、何とか弓削に着いて、実家の場所を松下さんに聞きながら、港から右手の方向へ歩いていき、昼過ぎに太田の実家に帰ることができた。

家には、両親が揃っていた。お父さんが、すぐに本を出してきて、火傷には胡瓜をおろしたものが良いと言っていたように思う。その後、15分ぐらい滞在して麓さん達は、土生まで帰り、麓さんは徒歩で大浜の自宅に向かい、夕方ごろ帰りついた。

広島から尾道に着いたとき、駅前に親戚の伯母さんがいると言うことを、松下さんは麓さんに言っていない。麓さんは、そんな話は聞いていなかった。それはおそらく、松下さん一人なら叔母さんを訪ねたかもしれないが、麓さんと赤尾さんがいたので、気を使って言わなかったのだろうということである。
後の情報によれば、当時は家屋疎開で尾道の叔母さんの家は壊されていて、栗原のある人の倉庫の二階に住んでいたということである。そのため、おそらく松下さんは、叔母さんがどこに住んでいるのか知らなかった可能性がある。

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故松下秀一郎さんの墓碑。「昭和20年8月23日14才」と刻まれている。

(つづく)

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