空襲の子Ⅱ【55】十年間の調査報告 31年前の新聞(2)

日立造船因島工場内に殉職碑「殉護照」が建立された昭和57年(1982)ころにもどってみよう。


当時、因島工場は広島工場因島と呼ばれていた。工場資料によれば、昭和52年(1977)に因島と向島が統合されて、広島工場と改称された。

碑建立にかかわった石井章董工場長は、昭和55年12月から同60年6月の4年7カ月を務めた。「島が沈む」とも言われた、年の瀬の大合理化の嵐、その直前に工場を去った。「因島工場75年史(抄)―因島工場の思い出を語る」の「歴代工場長の思い出」のなかに、石井氏の回想が載っている。

同氏は、思い出に残るものとして7点を列記し、その3番目に「創業100周年記念として新慰霊碑、殉護照を建立し、工場にシンボルができたこと」をあげている。造船マンにとって空襲や労働災害よる仲間の死には特別な想いがあったに違いない。

今だから言えるのかもしれないが、当時私が因島にいれば石井工場長に取材を申し入れたであろう。空襲で何があったのか、何故会社は偽りの発表を修正しようとしないのか、空襲犠牲者の名簿を公表しないのか。当然、基本的な事実を質したであろう。

無念でならない。取材のチャンスを与えられた中国新聞因島支局は、故意かどうか知らないが、真相にかかわる質問をいっさいしなかった。こうして真実が封じ込まれ、歴史が偽造されていくのだろう。

新たな殉職碑が建立されるのであるから、工場内において空襲犠牲者追悼の想いが強まっていたのは確実だ。住民においてはどうか。生々しい記憶が残っていたのではないか。それらを記録する活動の高まりが始まっていたのではないか、と推測する。

因島空襲の体験を中心に調査した土生中学校1学年展示係のまとめたパンフレット、「語り伝えよう因島の戦争体験」の発行が、「殉護照」建立と同時期であることに気付いた。いずれも昭和57年(1982)である。

中学一年生たちは、つぎのテーマをかかげ調査を繰り広げている。

  • 因島の空襲の様子
  • 戦争中の生活
  1. 着るもの
  2. 食べもの
  3. 燈火管制
  • 学校生活の様子
  • 防空ごうの生活
  • 戦争直後の生活
  • 私の戦争体験

パンフレットを読むと、この調査に多くの土生町民が協力しているのが分かる。まえがきに「アンケートに協力くださった1年生の父母のみなさん、土生町のみなさんのおかげで、いろいろ知ることができました。本当にありがとうございました」と記されている。

だが、日立造船因島工場にアンケートを申し出た形跡は見当たらない。その計画がなかったのか、それとも拒否されたのか、実に興味のあるところである。

中学1年生が地元の歴史を調べる活動を、ここまで行なっているというのに、れっきとした報道機関が何をしていたのか。その想いがどうしても消えない。

因島は典型的な造船城下町であった。工場の言うこと、やることなら何でもまかり通る風潮さえあった。そうしたなかで高校時代までを過ごした私の脳裏に、企業と行政の癒着、企業と報道の慣れあい、御用報道という疑惑が、浮かぶ。空襲調査だけはねじ曲げられてはならない、とあらためて思うのだ。

(青木忠)

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