空襲の子Ⅱ【45】十年間の調査報告 日本郵船の決断(3)

 日本郵船が会社の総力をかけて「日本郵船戦時船史」を出版した背景として、大戦によって日本商船隊が壊滅したことや、その他にも多くの小型の機帆船や漁船が失われたことが考えられる。アメリカは、勝敗のカギが日本の海上輸送路を破壊することにあるとして、民間商船などすべてを攻撃対象にした。


 以下の記述は、公益財団法人・日本殉職船員顕彰会の資料を参考にした。太平洋戦争において日本の海運・水産業は、軍人の損耗率(戦争に参加した員数と戦死者の比率)を上回る戦没船員を出し、膨大な船舶を失った。
 軍人の損耗率は、陸軍20%、海軍16%に対して船員は、43%におよんだ。戦没船員は6万609人になる。そのうち14歳から19歳の船員が1万9048人になり、31.43%を占めている。喪失船舶は、商船がおよそ2500隻、漁船や機帆船が4千隻を超えている。
 戦没船員と戦後の海難事故による殉職者の慰霊行事が毎年春、横須賀市観音崎公園にある「戦没船員の碑」の前で行われている。戦没・殉職船員追悼式である。今年で42回目を迎えた。
 私は第40回追悼式に出席した。日立造船因島工場で空襲によって亡くなった大玄丸と日寅丸の若き船員たち15人の慰霊のためであった。眼下には浦賀水道、房総半島、遠くには太平洋の水平線が望まれた。碑には「安らかにねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」と刻まれていた。全国から遺族・関係者ら750人が出席した。その人たちにつづいて、碑に手を合わせ、献花した。
 「戦没した船と海員の資料館」が2000年8月、神戸市の全日本海員組合関西地方支部のビル内に開設された。
 日本経済新聞(2000年8月4日)は次のように報道している。
―太平洋戦争中に沈んだ徴用民間船の悲劇を後世に伝えようと、戦没船の写真や船員の手記などを収めた初の資料館が終戦記念日の8月15日、神戸市内にオープンする。元船員や犠牲者の遺族らが約2700隻に関する膨大な資料を集め、保管場所を探していたところ、趣旨に賛同した「全日本海員組合」(本部・東京)の協力で実現した。終戦から55年。遺族らは「人知れず犠牲になった輸送船や船員を忘れないで」と訴えている。
 村上貢弓削商船高専・岡山商科大名誉教授は、上島町「広報かみじま」の「かみじま歴史探訪」で、明治34年創立の弓削商船学校の卒業生や実習生からも多くの戦争犠牲者が出たと指摘している。「そのほとんどは、太平洋戦争中に商船や軍艦と運命を共にされた方たちです」と語る。そして校庭にある「招魂碑」に言及している。
―弓削商船学校(現高専)の教務課の金庫には、『卒業生死亡者名簿』が秘蔵されていました。太平洋戦争中の戦死者についての記録です。近島の出身者は次のようですが、記録漏れも多い模様です。
 弓削23名、岩城1名、生名1名、因島5名。
 弓削商船高専の校庭の一角には、大正七年建造の巨大な「招魂碑」が立っています。碑文(原漢文)は次のようです。「本校…在学之徒、不幸、中道にして斃(たおれ)し者、其の志、洵(まこと)に哀れむべきなり…」
 先週号で記した、香取丸の楠見松之丞さん、第一日祐丸の楠見儀一さんはいずれも、弓削商船出身であった。
 日本郵船、日本殉職船員顕彰会、戦没した船と海員の資料館、弓削商船高専の場合を見てきた。同じ船舶に関係した企業ではあるが、日立造船の対応の酷さに愕然とさせられた。敗戦から70年が経過しようとしている。果たしてこのままで良いのだろうか。
(青木忠)

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