空襲の子Ⅱ【42】十年間の調査報告 因島空襲と企業(6)

 やっぱりか、と思った。因島図書館で先日、岡崎兵衛さんが作成した郷土資料を閲覧した時のことだった。会社内部では、日立造船因島工場において空襲で百人規模の犠牲者がでたことが、共通認識になっていたのだ。


 岡崎兵衛さんは昭和31年、九州大学経済学部から日立造船に入社、最初に赴任したのが因島工場だった。そして定年後、執筆活動を行い、因島の瀬戸内文化についても、昔から地元に伝わるうたをベースに、まとめてきた。そのなかに、空襲当時について関係者が残した文章が紹介されている。
 「日立造船因島工場の犠牲者の数は、百人をはるかに超えていたのではないか」と証言した、葬儀の責任者でもあった三浦勉さんが、日立造船社友会誌「社運とともに」(昭和五六年)に同趣旨の文章をすでに寄稿している。
 また空襲当時、犠牲者を荼毘にふした場所の近くの日立造船の「青影寮」に住んでいた方の一文を掲載している。
―(前略)終戦も間近になって、遂に因島も本格的な空襲の被害を受けました。私も爆風で吹き倒され、臓物が一度に口から吹き出したようでした。
 当時、私は青影寮のいわゆる三階に住んでおりましたが、その日帰ってまた驚きました。爆風で室内は散々な有様でした。米軍が山上の高圧送電線に沿うて投爆したようです。
 そのうえ、火葬の匂いにほとほと参りました。空襲で亡くなった方々を焼いたのです。
 戦争の悲惨さをしみじみ感じながら、土生の町を夜更けまであてもなく歩きつづけました。
 こうした体験者の証言をうけて岡崎兵衛さんは、歴史年表の昭和20年のところに「因島工場、空襲を受ける。死傷者約100名」と記している。
 実際に体験した人たちの証言と日立造船社史の空襲の記述。なんというかい離。やはり社史の内容は、いわゆる「大本営発表」の虚報だったのだ。
 会社は今日に至るも、その内容を堅持してきた。「七十五年史」(昭和31年)、「八十年史」(昭和36年)、「九十年史」(昭和46年)、「百年史」(昭和56年)、と同じ内容が変更されることなくつづいていった。
 今年の4月に「百三十年史」が発行された。この段階に至るや、空襲を受けた事実すら記述されていない。大戦当時については次の文章で済ませている。
―12年に日中戦争が勃発して戦時経済体制が進み、16年の太平洋戦争開始とともに、当社は陸海軍の管理下に置かれ、戦時の非常事態に入った。
 日立造船と空襲について検討してきたが、労働組合は何をしていたのか、この点が大きな疑問である。通常、同じ職場で働く多くの仲間が空襲で犠牲になったのだから、組合は何か動きをみせるはずである。しかし、日立造船労働組合因島支部が発行した「戦後の因島労組二十年史」は、そのことにいっさい触れていない。
 戦時下の昭和15年8月に解散した組合は、敗戦直後の昭和20年11月に再び創立された。日本労働組合総同盟中国造船労働組合因島支部である。しかし空襲の悲惨な現実は、彼らの関心外だったようだ。
 この間、6回にわたって日立造船という企業が、自らを襲った空襲にどのように対応してきたか、書いてきた。それは、一貫して逃げ腰であった。真正面から立ち向かう姿勢はいささかも見られなかった。
 第二次大戦において壊滅的な打撃をうけ、多くの船舶と乗組員を失った日本郵船株式会社は、日立造船とは対照的である。その取り組みを書いてみよう。
(青木忠)

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