空襲の子Ⅱ【33】十年間の調査報告 因島空襲と行政(4)

 戦争―敗戦―占領の過程は、日本にとって最大の歴史的試練であった。敗戦を三庄国民学校五年生で迎えた檀上昌也さんは、「因の島覚え書」に次のように記している。


―学校のあり方にしても例外ではなかった。学制改革と称して、従来のあり方をすべて改め、九年間を義務教育とする六・三・三制を制定する一方で、教科の内容にまで立ち入って、歌やスポーツまでが規制されることになったのである。
 その結果、君が代はおかしい、柔道剣道は大和魂につながる恐れがあるので以ての外と、学校教科から閉め出された。
 まあ、このくらいのことであれば敗戦国の立場から甘受するのはやむを得ないとしても「神国日本を主導してきた輩」が、文字通り手の平を返すように、コロット裏返って民主主義を口にする軽忽さ見苦しさ、小学唱歌まで玩弄り廻すに至ったことに苛立ち立腹させられているのである。
 似非文化人共が、日本の床しさ、人情風俗を口ずさむ学校唱歌の片言隻語迄を変えることで、見苦しくもマッカーサーに阿諛(おもねる)ことよ。
 私の出身校である椋浦小学校の創立百周年記念誌に、当時を想起させる記述を発見した。敗戦当時、小学校一年生だった方の回想文の一部である。
―(前略)やがて終戦になり、ある日進駐軍の兵士が椋浦に来ましたが、学校を調べに来るらしい、本をとられるぞ、と誰言うともなく騒ぎだし、私達は大急ぎで裏の芋畑や草の中へ教科書をかくしにいきましたが、兵士達は何もしないで帰りました。(これは誰かのいたずらだったのでしょうか)私達は、進駐軍兵士に教科書を奪われなかったことを喜びながら土を払って小さな胸に大事にそれをだきしめていました。
 象徴的なことだがこの記念誌に、同じく同窓生の青木茂氏が、「あれからもう五〇年」という談話を寄せ、昔話でお茶を濁している。ここでも彼は、昭和の激動に無関心を装っている。
 戦争―敗戦―占領という未曽有の事態は、彼にとっては所詮、他人事だったのではないか。その嵐に立ち向かうことなく、それが過ぎ去るのを見届けた後に、何食わぬ顔で表舞台に登場した多くの大学人たち。その一人が青木茂氏だったのではないか。だとするならば、必要以上にマッカーサーにおもねる彼の姿勢が理解できるのである。理不尽な強者に対し屈したものは、それと徹底的に闘うこと抜きに、身に沁みついた奴隷根性から解放されることはないのである。
 「因島市史」が発行されたのは1968年(昭和43)のことである。その後しばらくして、地元関係の歴史本の出版が相次ぐことになる。それぞれが、「因島市史」が避けた近現代史に焦点を合わせているように思えてならない。またこうした事態は、青木茂氏の、資料が焼却されて近現代史の描写が弱くなったなどという釈明が、偽りであることを示しているのではないか。
1982年(昭和57)「ふるさとの思い出 写真集 明治大正昭和 因島」(中島忠由・岡本馨編集)。
1984年(昭和59)「ふるさと三庄」(三庄老青連合会)。
1997年(平成9)「写真が語る激動のふるさと一世紀 目で見る 尾道・三原・因島の100年」。
 とりわけ「ふるさと三庄」は、「因島市史」が事実そのものを取り上げなかった三庄空襲を、証言を通して明らかにしている。さらに町史として、極めて興味のある記述がなされている。
(青木忠)

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