空襲の子Ⅱ【32】十年間の調査報告 因島空襲と行政(3)

 占領軍最高司令官マッカーサーの亡霊に畏縮した、因島市史編者の青木茂氏は、「…多くの施設を破壊されたが、鋭意回復、整備、今日に至ったものである」であるとし、空襲とその後の因島の歴史をねつ造したのである。


 空襲で工場を破壊されたばかりか、連合軍占領下で日立造船因島工場と三庄工場は、存亡の危機にたたされるのである。いずれの工場も、全資産が接収され、戦争被害国への賠償にあてられるという、賠償工場に指定されたのである。このままだと工場滅亡が必至の情勢になった。
 工場所在地の土生と三庄両町の住民は立ち上がった。土生町の森原孝一、三庄町の池田徹平、土生町参與代表の巻幡敏夫、土生町消防団長の北野久吉の四人は、占領軍に嘆願書を提出すべく不退転の決意で上京した。
 占領軍担当者に、「私共は町村民の死活の問題だから、実施視察をしていただけなければ帰れない」と直談判し、因島現地調査の約束を承諾させた。やがて占領軍は賠償指定を撤回したのである。占領下でも感動的な住民の闘いは存在したのである。
 「日立造船90周年史」は、敗戦直後のことを次のように記している。
―第2次世界大戦は、わが国の無条件降伏によって終結し、その結果、日本の造船工業は海軍と海運の2大顧客を失い、操業はまったく不可能となり、従業員の生産意欲も低下した。しかも占領軍のきびしい対日政策によって、ほとんどの施設は賠償撤去の指定を受け、再建の見通しは立たなかった。
 こうしたなかで1946年(昭和21)8月、TL型戦標船タンカーを捕鯨船「橋立丸」に改造する工事を因島工場で施工することになった。「ふるさと三庄」は、この工事を「当時敗戦でうちしおれていた従業員、町民をいかに喜ばしたかを物語るもので、後世に語りつぐ価値のあるものである」として、次のように描いている。
―当時、工事量不足に悩んでいた工場にとっては、この朗報は旱天に慈雨のように、従業員は歓喜し、この工事完遂に精魂を打ち込んだのである。この工事は、当時食糧事情の緊迫していたわが国にとってはもち論、内外注目の工事でもあった。
 そのころ資材、食糧はきわめて入手難のため、労使一体となってその確保に努力を傾け、県の知事、関係各課、さらに中央の各省に猛烈な陳情運動を展開し、当時としては入手困難であった米軍放出物資が支給されたのである。
 またこの橋立丸の工事の完成が因島工場の浮沈にかかっていた。そのため、因島各町村からは、一握り供米運動が行われ、従業員激励に特別な食糧が供給され、従業員の子弟は工場の入退場門に並んで、「頑張ってください、お願いします。」と涙ぐましい訴えをするなど、島ぐるみ、地域ぐるみの力の入れようであった。
 橋立丸改造工事は二カ月で完成した。これが、日立造船因島工場復興の緒になったと言われている。
 戦争や空襲での多くの犠牲者、敗戦直後の住民の苦闘なくして因島は存続しえなかったであろう。それが礎となって因島市は誕生しえたのである。ところが「因島市史」からはそれらがすべて、排除された。それは何故なのか。その時期が連合軍と占領軍と深くかかわっているからである。資料がなかったわけではなかった。ただ編者こそが、マッカーサーに遠慮したのである。
 私はマッカーサーに遠慮をしなかった。容赦なく対決する姿勢で空襲を調査し、文章を書いてきた。何故それが私にできて、青木茂氏にできなかったのか。さらに考えてみたい。この点にこそ、私が戦後をどのように生きてきたのかの核心があると言えよう。
(青木忠)

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