碁打ち探訪今昔四方山話【44】秀策の兄弟子本因坊秀和(2)天才児秀和の生い立ち

第十四世本因坊秀和は幼名を土屋俊平といい、文政3年(1820)生まれというから秀策より18歳年長である。土屋家は伊豆の君沢群小下田村だが先祖は甲斐武田の落人、土屋新左衛門を遠祖として代々名主をつとめた旧家だったと土肥町の教育委員会でおしえられた。父和三郎は現在の静岡県三島市から婿に来た人である。和三郎は土屋の長女皆(みな)とのあいだに2男1女をもうけたが、皆は27歳で早世。その妹力(りき)と再婚、1男2女をなした。その後妻、力が生んだ男子が俊平である。

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秀和の生家


和三郎は若くして小下田村の名取りになったが学問に優れ、碁もかなりの打ち手であったらしく晩年の秀和が「私の父はかなりの打ち手だった」と語っていたことが伝わっている。俊平は、この父から碁の手ほどきを受けたのであろう。「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」で、8歳のころには近村で敵する者がなかったといわれる。こうした天才児は各地方でうわさにのぼり俊平もその一人だった。

父和三郎は俊平の才能を認めなんとか囲碁の道で大成させたいと願うようになっていた。文政11年(1828)夏、和三郎は9歳の俊平を連れて三島大社の祭礼見物に出かけ「沼津万屋(よろずや)某という碁の強い12歳の少年がいる」という話を聞いた。和三郎は俊平とその少年を打たせてみたいと沼津へ立ち寄った。結果は俊平が四目置いて打ったが惨敗だった。

上には上がいるものだ―と、俊平よりも和三郎の方がショックを受けた。そこで俊平によい師匠を就かせて修行させようと思いたち、そのまま江戸へ出た。そして、当時囲碁界の頂点に立っていた第十二世本因坊丈和の門をたたいた。丈和は伊豆西浦の木負村(きしょうむら)現沼津市出身であったこともあり、内弟子の話はトントン拍子に運び、和三郎は俊平を"名伯楽"に預け大喜びで下田に帰った。ところが、家族の猛反対にあうはめになってしまう。

(庚午一生)

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