ふるさとの史跡をたずねて【144】お政大師堂(因島田熊町東区)

お政大師堂(因島田熊町東区)

明治橋の交差点から東へ入る道は妙泰越の対潮院墓地横を通って三庄方面へ抜ける近道に続き、交通量は多い。因島スーパー田熊市場近くから島四国57番永福寺へ入るのであるが、その道路脇に島四国のお堂と見間違うばかりに立派なお堂がある。番外札所お政大師堂である。

大師堂の堂守として住んでいたと書くと、小さなお堂に人が住めるのかと思う人も多いと思う。家電製品に取り囲まれた現在の生活から見ると、システムキッチンの代わりに七輪一つが唯一の家財道具であった小屋掛けのような生活を想像することは難しい。まあ、そういうことが可能な時代であった、ということにして話を続けよう。そういう人が大師堂の名前として今に伝わるわけだから、よほど奇特な方だったにちがいない。わずかの伝聞を元に思いをめぐらしてみよう。

お政さんの先任者はお竹さんである。家族に、もて余されたお政さんを引き取り、下働きをさせながら育てて教えたら、お竹さんを上回る能力を発揮した。今風に言えば、おがみ屋とか占い師とか祈祷師とか霊媒師と呼ばれる類の、要するによろず相談人だったのであろう。それで生活をしていくとなると、余人には理解しがたい超自然的な能力をもっていたということだろうか。

時々、足し算のできる犬や馬がいて、3+5と問題を出すと犬なら8の札を、馬なら前足で8回たたく。その秘密は飼主の表情の中に答えがあったというわけである。

このことから連想するに、この二人の女性は、相手の表情を読む力に優れていたと思う。またこの人の言うことなら当たる、と思わせるだけの雰囲気も備えていたと思う。

超自然的な能力に対する私の解釈は以上に尽きる。それ以上のことはわからないが、お政さんも偉いがそれ以上にお竹さんも偉いと思う。お政さんは明治の初め頃の生まれだということだから、お竹さんはその頃までに一家をなしていたと思われる。そして島四国のつくられた明治44年頃には、お政さんは存命であり、このお堂を島四国のお堂のひとつにすることはなかった。

(写真・文 柏原林造)

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