碁打ち探訪今昔四方山話【36】「耳赤」のエピソード(7)起死回生の一石三鳥の妙手

天皇も興味そそられる

大阪での「耳赤の局」は京都に伝わりました。大阪で栄斎と対局、中押し敗けした中川順節から京都に居た河北房種五段にその時の棋譜がとどけられ「これが13歳の少年か…」と着手の手順に非凡なことに驚きました。この河北五段は幼名を耕之助といい武家の出。8歳のころから囲碁を習い、外山算節に師事し、修行のため3年間に1900局も対局したという記録を残している棋士でした。

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写真は華頂下賜の金具蒔絵の木太刀


河北五段は当時自分が囲碁指南のため参上していた華頂宮家で、栄斎少年の話を伝えたところ、宮さまも非常に興味をもたれました。そして、天皇も殊のほか感心され「是非その棋譜を見たい。そして大阪に立ち寄ることがあれば是非京都にも立ち寄って、河北房種五段と対局して見せるよう」と仰せがありました。

河北五段は天皇の仰せにより早速、四局の棋譜を差し上げたところ、天皇はその四局全部を御覧になり、殊のほか感心されたご様子だった。しかし残念なことに栄斎と河北五段の対局は機会がなく実現されませんでした。

この話は「天保12年辛丑小春」という河北五段の書き記した文書に載っています。そして現在、秀策生家隣接の本因坊秀策囲碁記念館に寄託、展示されている華頂宮家から頂戴した「金具蒔絵の木太刀」はこのときの遺品として残されています。

この年は秀策の人生で大きくステップする一年になります。その一つは栄斎が江戸に着いた翌月の9月11日、本因坊丈策から改名するよう申しつけがあって「秀策」という名をいただきます。

丈策がなぜ秀策という名を選んだか色々と推測されますが、秀策の「秀」は十三世本因坊丈策の跡目となっていた秀和の秀をとって本因坊家の後継者候補にしようという考えからと思われます。そして策の字は丈策自身の策を与えたという説と「本因坊家に百五十年来の風が吹く」と称して喜んだという百五十年前の碁聖・第四世本因坊道策の策にあやかったのだろうと考えることできます。こうして栄斎13歳の天保12年9月11日から安田秀策と名乗ることになります。

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(庚午一生)

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