空襲の子Ⅱ【3】十年間の調査報告 時代の縮図、因島(1)

 空襲の調査をつづければつづけるほど痛感したのは、因島の発展が日本の近現代史と深く結びついており、それが時代の縮図としてあるということである。


 「因島市史」は、明治27年(1894)日清戦争、同37年(1904)日露戦争、大正3年(1914)第一次世界大戦、第二次世界大戦などの時代的経過をおさえたうえで、その間の因島について次のように記している。
―こうした間に、因島では、戦乱と造船景気で、南部の人口が急増し、土生村がまず大正7年1月1日に、つづいて三庄村が、同10年6月1日、さらに田熊村が昭和24年4月1日に、それぞれ町制を施行した。
 つづいて郷土史研究家の故中島忠由氏の「因島市百年史略年表」(日立造船広島工場創業百年史)から関係事項を見てみよう。
 日清戦争直後の明治29年(1896)に土生船渠合資会社設立された。日露戦争の最中、「当時宇品港に集まる軍用船の修繕工事で因島船渠は繁忙を極めていた」。明治34年(1901)に三庄村(現在の因島三庄町)に備後船渠株式会社が設立された。
 中島氏は日露戦争による軍需景気について「海事経済史研究」を引用して次のように記している。
―日露戦争によって、一時に大量の船腹需要を喚起した。当時国内の新造船の建造能力では、この需要の急増には対応しきれず、必要の船腹の大部分は外国からの輸入船や傭船或は一部拿捕の船で補われた。
 日本が第一次世界大戦に参加し、ドイツに宣戦布告。「大戦勃発のため経済界混乱・因島の景気回復」とある。それより3年前の明治44年(1911)に土生船渠株式会社が大阪鉄工所の経営になった。さらに大正8年(1919)に大阪鉄工所が備後船渠を買収し、同鉄工所の備後工場に改めた。
 昭和六年(1931)満州事変、昭和七年(1932)上海事変、満州国成立。「軍需工業好況」とある。その2年後、大阪鉄工所因島工場が日産の経営下に入った。
 昭和16年(1941)太平洋戦争開戦。昭和18年(1943)因島工場と向島工場が日立造船株式会社になった。翌年1月、軍需工場に指定。こうして因島は、田熊村の占部造船と合わせて、土生、三庄、田熊という三つの町をまたいだ巨大な軍需工場地帯を有することになった。三庄町の会社敷地には連合軍捕虜収容所が建てられた。県下では呉海軍工廠につぐ規模と言えよう。
 この工場群で働いていた人は、1万とも2万人とも言われている。正規の従業員や下請けに加えて、県下から大量の徴用工が送り込まれた。国の命令で強制的に造船所で働くことになった人たちである。朝鮮半島からも数百人規模で徴用された。地元の土生高等女学校はいうまでもなく広島県東部の中学生が学徒動員された。最大で200人近く収容されていた連合軍捕虜も工場で強制労働に就いた。
 昭和20年(1945)になり因島は二度の大きな米軍の空襲を受け、多くの犠牲者を出した。3月19日と7月28日である。そして敗戦を迎えた。苦難は連合軍占領下でも継続した。島の基幹産業である造船は占領軍の支配下に入り、没収の危機にも立たされた。島のリーダーは公職追放を受け、多くの人たちは沈黙を強いられた。
 昭和25年(1950)朝鮮戦争勃発。この「朝鮮特需」で日本経済は再建のきっかけをつかんだ。造船業界も同様であろう。20世紀が戦争と動乱の時代であるとするならば、因島はその只中を翻弄されながらも歩んで来たに違いない。
(青木忠)

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