因島にて…Ⅱ 地域から見えるもの【終】私と原発(6)

 今から20年前に、関東大震災の再来を恐れてUターンした私と家族は、子どもたちの成長に伴い分散化した。娘は東京に就職し、息子は松山市の大学に入学した。したがってめいめいが、「3・11」を違った場所と形で体験することになった。


 外食産業に就職した娘は、その日は店に泊まり、食事を求めて殺到する帰宅できなかった人たちの対応に追われた。食材が尽きるまで営業をつづけたという。就職活動で里帰りした息子に伊方原発を抱える愛媛県の様子を尋ねた。やはり色々と話題が沸騰しているようだ。瀬戸内の島に住みつづける親たちと違ってふたりは、東日本大震災を肌で感ずることができたのだろう。
 我が子たちが生きていかなければならない時代の前途に希望があるのだろうか。良き伴侶に恵まれたとき、自分たちの子供たちを生み、家族をつくることに不安がよぎることはないであろうか。いっそうしっかりと生きてほしいと願うばかりである。
 朝日新聞の連載「『人・脈・記』 核に別れを」は、次のような衝撃的な数字の羅列で始まっている。

―ロシア1万1千、米国8500、フランス300、中国240、英国225……とんでもない数の核兵器の危うさに気づき、「核なき世界」を目指す新たな潮流が欧米で生まれている。本丸のアメリカから話を始めよう。

 何回、世界と地球を破滅させたら気がすむというのか。それに加えて400を超える原発が世界で稼動している。2009年4月、オバマ米大統領は「核のない世界」を追求するという「プラハ演説」を行った。しかし人類は、自らの破滅の前に、核の廃絶を成し遂げる力と可能性を有しているであろうか。
 ちょうど今、1954年3月のビキニ事件の記事を読んでいる。朝日新聞の連載「原発とメディア16 『平和利用』への道」は次のように記している。

―乗組員23人のマグロ漁船、第五福竜丸が3月1日早朝、中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁北東で操業中、米国の水爆実験に遭い、「粉のような灰」を大量に浴びて14日、焼津港に帰ってきた。

―9月23日、第五福竜丸の無線長、久保山愛吉が死亡した。40歳。死因は「放射能症」と発表された。

 この事件は記憶の底にしっかりと息づいている。小学校4年生のときだ。その影響か、私は時事問題に強い関心を持つ子供へと成長した。野球と受験に明け暮れた中高生時代を経て広島大学に入学することで再び、「核と原爆」に直面することになる。そしてすべてに絶望した。
 それは深刻で、新たな歩みを始める前に、大学の初年度の一年間を棒に振ってしまった。だがそれが充電の時間となった。私は絶望している状態を肯定し、とことんそうあることで、新しい出口を見つけることができたのだ。それは社会が敷いたレールに乗ることを拒否し、人生行路を自ら創り直す道であった。それは闘って闘いぬく人生の選択でもあった。
 私は、2011年3月11日の東日本大震災を自分が生きてきた人生のすべてをもって受けとめようとした。思えば生後九カ月で米軍の空襲を受けて死にかけて以来、波乱に満ちた人生であったと思う。眼前の苦難をなんとしてでも乗り越えて生きていこうと思う。(完)
 次号から「空襲の子…Ⅱ」の連載を始めます。この間の実態調査の成果に踏まえ、新しい問題意識と視点をもって、犠牲者の七〇回忌が近づいていることを念頭に置き、因島空襲の実相にいっそう迫っていきたい。
(青木忠)

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