因島にて…Ⅱ 地域から見えるもの【23】私と原発(5)

当時、学生運動は様々な思想的試練を乗り越えながら大きな高揚を実現していった。初めて運動の総力を挙げて取り組んだ沖縄闘争(本土復帰・基地撤去・永久核基地化阻止)において突きつけられたのは、「基地を撤去すれば、沖縄は元の『イモとはだし』の時代にもどるぞ。それでもよいのか」という政治的・思想的な脅迫であった。


成田空港建設反対運動は明らかに学生に飛躍を求めた。「自分の土地を守るための空港反対はエゴイズム」キャンペーンに対して、「農民の農地死守の闘いに正義がある」として、「農民の生活を守るためなら、空港なんかいらない」と公然と言い放った。

1968年1月、あらゆる犠牲を惜しまず、原子力空母エンタープライズ阻止佐世保闘争を闘った。核の事故や汚染に危機感を募らせていた。だが、建設がつづいていた原発へと問題意識は広がらなかった。「原子力の平和利用」論を批判しえなかったからだろうか。

1979年3月スリーマイル島、1986年4月チェルノブイリと世界を揺るがす原発事故が連続する。そして、しばらくして私は生まれ故郷にUターンし、瀬戸内海をはさんで真向かいの愛媛県伊方町に原発があることを知った。しかし、それへの不安を押し隠し、新生活を開始した。

これも縁というものか、それから18年経った夏、私が呼びかけ人になって開いた広島市での集会で、伊方原発反対運動をつづける人たちと出会うのである。そこで購入したのが、「原発の来た町 原発はこうして建てられた 伊方原発の30年」という書籍であった。著者は、「南海日日新聞」社主の斉間満さんである。1943年生まれとあるから私より1歳年輩である。添えられたパンフレットに2006年逝去とあった。

愛媛県西宇和郡伊方町への原発誘致が表面化したのは1969年7月のことである。漁民は猛反対し、地元漁協は絶対反対を決議した。総会での組合員のやりとりを書いた「新愛媛新聞」(1971年4月25日)の記事が次のように引用されている。

―松田組合長は「反対すれば成田空港の二の舞になるだけだ。それでもいいのか」と反論。組合委員は「漁場を潰され、どこで生きれるか。みんなの総意なら成田の二の舞もいい」と追及、激しい応酬になった。一時は興奮した組合員の中から「バカヤロウ」「役員は総辞職しろ」と、激しい言葉があびせられ、会場は混乱した。

典型的な住民運動切り崩しの手法で1973年、工事が着工され、4年後に運転が開始された。しかし、反対運動は今なお継続されている。また伊方原発の危険性を指摘する専門家が多いのには驚かされた。朝日新聞出版の雑誌「アエラ」が行なった「専門家に聞く『危険度ワースト5』」では二人の専門家がそれを指摘している。

元京都大学原子炉実験所講師の小林圭二氏は「活断層の先端に位置し、大地震の危険度に対し、耐震評価が甘い伊方原発が危険」と指摘する。

さらに技術評論家の桜井淳氏は、「伊方原発も77年運転開始の上、近くに活断層がある。これは阪神淡路大震災(1995年)を起こした活断層の延長線上に位置するものだ」と警告している。

私の東京からのUターンの動機は、関東大震災の再来を恐れたものだ。危険な首都を離れて、安全な瀬戸内海へと避難したつもりだった。しかし、地震、津波、原発などどれをとっても安全とは言えない。

もう避難するところはどこにもない。必ず訪れるであろう大地震や大津波。伊方と島根の原発に包囲されていることを片時も忘れることがあってはならない。まさに戦場のただなかにいるのだ。

(青木忠)

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