因島にて…Ⅱ 地域から見えるもの【16】研究者の試練(2)

 日本地震学会長の平原和朗・京大理学研究科教授は、大地震がいつ起きてもおかしくない情勢のなかで、国民の意識のあり方について語っている。

―自分は安全、大丈夫と思うのはやめたほうがいい。日本は地震国だということを強く意識しなければいけない時代になった。今、ここで地震が起こったら(月)と想像するイメージトレーニングをして欲しい。あれが倒れてきたら、どう身を守れるか。安全確保の訓練をする。その一瞬を生き延びれば、何とかなる。

 原発事故についても、地震学者の立場から質問に答えている。

―(前略)今の地震学であらゆる地震の起こり方を想定することは難しい。何が起こるかわからないということを今回、学んだ。すぐには無理でも、原発を段階的に縮小してやめる計画を立てたほうがいい。

 東日本大震災について、「学者にとっても想定外の地震でしたか」の質問が投げかけられた。

―言い訳はたくさんあるが、想定外としか言えなかったことは、敗北だ。喪失感にとらわれた。(中略)今回の地震では、沖合の日本海溝に近いところに、大きなエネルギーがたまっていたが、実際に地震が起こるまでそれを見逃していた。なぜ、間違ったのか、問題点を洗い直す委員会を日本地震学会は立ち上げて、検討している。

 私は東日本大震災が起きた後に、「大地動乱の時代―地震学者は警告する―」(石橋克彦著、岩波新書)を読んだ。そのなかで、大正12年(1923)の関東大震災をめぐって深刻な研究者同士の論争があったことを知った。「今村・大森論争」である。
 著者の石橋克彦・神戸大名誉教授は、その論争を、その発端、「論争再燃」、「論争の決着」の三場面にわたって描いている。その著述にそってみていきたい。
 東京帝大地震学教室助教授の今村明恒(当時35歳)は日露戦争直後の明治38年(1905)、雑誌に、「東京は50年以内に大激震に襲われるだろうから震災対策を1日も猶予すべきではなく、とくに火災が発生すると10万以上の死者が予想されるので石油灯を全廃して電灯に代えるべきである」という趣旨の論説を書いた。
 翌年1月ある新聞が、「今村博士の大地震襲来説」とセンセーショナルに報道し、大きな反響を引き起こした。それに対して、地震学教室教授の大森房吉が、今村批判を公然と開始した。

―大森は今村より2歳年上なだけだったが、明治30年以来教授として地震研究に打ちこみ、このころは震災予防調査会もほとんど一人で背負っていた。彼は雑誌『太陽』3月号で、大地震が近い将来東京を襲うという説は学問的根拠のないデマだときめつけた。地震学の最高権威のこのような言葉によって、世情不安はひとまず静まった。

 しかし、大正4年(1915)11月12日未明に始まった、九十九里浜南部の一宮付近での群発地震をきっかけに、論争は再燃した。大森不在のなかで今村は記者会見を行い、「大地震の続発が絶対にないとは断定せず、火の元の用心をしておくに越したことはないと付け加えた」。この会見内容について、大森は今村を厳しく咎めた。

―大森には、立場上、社会不安をおこさないという配慮がつねに働いていたようだが、直接的な論点は群発地震が大地震の前兆でありうるか否かという学問的なことだったので、今村も激しく反論し、両者の対立はいっそう深刻になった。

(青木忠)

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