因島にて… つかみかけた確信【50】

時代遺跡の島(1)
 夏以降の空襲調査の成果を原稿にまとめようと準備をしていると、延坪島(ヨンピョンド)を戦場に韓国軍と北朝鮮軍の戦闘が勃発した。報道によれば住民は、島内の防空壕や仁川港などに避難したという。


 テレビ映像に写った防空壕は、実際に使われている本格的なものであった。それに対して日本で見ることのできるそれは、埋められたり、倉庫代わりに使用されたものばかりである。しかし65年前には空から攻撃され、多くの人たちが逃げ込んだに違いないのである。
 私が住む因島は、太平洋戦争時代の施設が現存している。その全体像を記録に残すことが、空襲調査のひとつの課題になっている。このまま忘れ去られてしまうのでは、あまりにも惜しいのである。まず、百十数年の歴史を有する日立造船因島工場からみていこう。
 日立造船因島工場 スタートは、明治27年(1894)の土生船渠合資会社設立である。この年に日清戦争がおきている。さらに日露、第一次、第二次と、大戦の時代を歩んできた。とりわけ太平洋戦争下では、一万人の従業員を擁する軍需工場になった。
 昭和15年以降、軍の管理工場に指定され、同17年には重要事業所になった。同19年1月、軍需会社法により軍需会社に指定された。
 「日立造船史―百年史」には当時の同社因島工場について次のように記している。
 ―因島造船所は、商船建造の傍ら艦艇建造を行う工場に指定された。商船ではA型及びC型貨物船・K型鉱石船、並びに本格的な軍隊輸送船で兵員及び上陸用舟艇の輸送設備が施された陸軍用の特殊貨物船(M型船、1万総トン)を建造し、艦艇では海軍の駆潜艇・敷設艇、陸軍の大型上陸用舟艇(LB‐D)・車揚陸用特大型上陸用舟艇(N‐LB‐D)を建造した。
 ―20年に海軍が特殊潜航艇等の量産を開始したとき、当社は、特殊潜航艇(型式は甲標的丁型、名称は蛟龍、全没排水量59トン)約30隻及び水中特攻兵器(型式はSS金物、名称は海龍、全没排水量19トン)約60隻の割り当てを受け、蛟龍は向島、海龍は桜島・因島の各造船所が建造にあたり、終戦までに蛟龍2隻を完成し、海龍は桜島造船所4隻、因島造船所5隻を建造中のまま終わった。
 「百年史」は、この時期に建造した船舶の写真を掲載している。因島工場関係は、

  1. 昭和18 航洋ポンプ式浚渫船 濬利(天津海河工程局)
  2. 昭和18 M型貨物船 吉備津丸(日本郵船。9574総トン、20.3ノット)
  3. 昭和18 K型船鉱石運搬船 日勝丸(日本郵船。6008総トン、13.4ノット)
  4. 昭和19 2A型貨物船 山岡丸(山下汽船。6932総トン、13.6ノット)
  5. 昭和18 第440号駆潜艇(海軍省。442排水トン、16.0ノット)。

 因島工場は昭和20年、2度にわたって米軍の空襲を受ける。特に攻撃が激しかった7月28日の工場の状況が、船舶の歴史に詳しい中村公巳さんの調査によって明らかになりつつある。
 空襲当日、3基の船台は空のままであった。1基は2日前に松南丸が進水したばかり。ほかの2基は資材不足で建造できない状態であった。岸壁に停泊していた船舶は、

  1. 進水したばかりの松南丸(3D戦標船2300G/T)
  2. 修理中の辰百合丸(辰馬汽船)と安治川丸(大阪商船)
  3. 曳船の北斗丸など
  4. 空襲で沈没した、大玄丸(大同海運)、光隆丸(大光商船)、日寅丸(日産汽船)、SB艇
  5. ほかにランチである。

 中村公巳さんの話によれば、現在の因島工場は、船台、ドックなど空襲当時と基本的に変わっていないという。軍需工場としての歴史を土台にして戦後の発展をとげて行ったのであろう。
(青木忠)

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