因島にて… つかみかけた確信【25】

文章化を急げ(3)
 大田しどりさんは、毎日新聞の「ひと」欄(2008年7月26日)を見て私にお電話を下さった。ふたりの私の姉の名を言い、私の姉かと尋ねた。そして、私の生家と隣接した大田さんの家も同じ空襲で全壊したと告げた。


 私は絶句した。空襲の調査をしていて、これほど驚いたことはない。私は、大田さんの実家である山崎理髪店の被害のことをまるっきり見落としていたのだ。慌てて地元の方が作り上げた空襲被害地図を広げて見た。山崎理髪店が記されているではないか。
 昭和20年7月28日の空襲によって、日立造船因島工場で多数の犠牲者が出るとともに、同三庄工場付近の民家が攻撃され、およそ17人の住民の死者が出た。その最も無惨な現場が、大田さんが作文に描いた場所である。
 爆弾が、木造3階建ての元遊郭「かきの屋」、隣接する山崎理髪店と私の生家である松本家を直撃した。3軒の家屋が全壊し、多くの住民が犠牲となった。作文には、一家6人死亡のことが描かれている。地元では、沖縄戦を避けて沖縄から疎開して「かきの屋」の3階に住み着いていた「ナカソネ」一家のことだと言われている。生後9カ月の私は生埋めになり、仮死状態のまま救出された。
 作文が届いて半年が経った2009年2月7日、大田さんとお会いすることになった。生まれ故郷でもある空襲の現場をしばらく散策し、場所を移して語りあった。彼女は、がれきのなかから取り出した、着物の布や通信簿など持参し、見せてくれた。
 大田さんが奈良にお帰りになってすぐ、次のお手紙が届いた。その内容が、また驚くべきものであった。
 防空壕入口の横に宮地種光君という私の同級生が住んでいて居たので、何かわかるかもしれないと思い電話をしてみました。驚いたことに爆弾が落ちたときは、かきの家に住んでいたというのです。電話ではらちがあかないと思い、すぐに大阪に行って話を聞きました。宮地君の話は次のとおりです。
 かきの家の1階では宮地家が豆腐を作っていた。2階が宮地家の住居。3階に沖縄の人、12人が住んでいた。他に秦という人も住んでいた。かきの家は集合住宅のように小部屋が多くあった。
 宮地家は空襲の1カ月前に三区から引越して来た。そのとき沖縄の人は既に住んでいた。
 爆弾が落ちたときのようす。3階の家族のうち、おばさんは小用へ臼引きに行っていた。亡くなったのは11人と記憶しているが確信はない。
 宮地の家は母・姉・種光君・弟の4人が居り、空襲警報が解除になったので昼食のじゃがいもを食べながら防空壕へ行こうとしたら、浅間山の方から突然、グラマン機が低空で飛んで来て爆撃、4人は生き埋めになった。母と姉はその場から脱出できなくて、母の「お前ら、早う防空壕へ行けぇ」と言う悲鳴だけは今でも覚えている。その後2人がどのように脱出したのか覚えていないが、とにかく4人とも、大した怪我もなく無事だった。
 宮地君には他に当時、いっしょに(全部で7人兄弟。姉1人はすでに尾道で働いていた)住んでいた2人の姉と弟が居たが3人は浜上に招集令状が来た人がいて、その家へ注文の豆腐をリヤカーで運んでいたので無事だった。(私の作文にもじゃがいもが出てきますが、前日、配給があったそうです)。
 私はその年の7月28日、因島土生町でひらかれた空襲記念日の集まりで、大田しどりさんと宮地種光さんとお会いすることができた。大田さんは帰り際に、「青木さんに空襲体験のことを話して本当によかった」と言って下さった。宮地さんとは翌日、語りあった。こんな不思議な邂逅があるものかと思った。

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