父のアルバム【39】第五章 苦難を越えて

空前のヒット曲になった「お富さん」。材を歌舞伎の「通称切られ与三郎」にとったという。当然、子供には、「粋な黒塀」「見越しの松」「仇な姿」などの意味など分かりはしない。そもそも「お富さん」とは何者なのか。男それとも女なのか。

でもそんなこと構やあしない、「生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の」だけは子供たちにもはっきりと通じるのである。全体の歌詞がまだらに理解できるだけで十分で、あとは勝手な解釈をして、子供たちはメロディにつられて歌ったのである。

ところで学校は、児童が「お富さん」を歌うことを許すはずがない。当時、全国的に小中学校は歌うことを禁止したという。もちろんわが小学校も例外ではなかった。

こうした場合、校長の息子の私はどうしたのだろうかと回想してみる。父母のいるところでは歌ってないことは確実だ。しかし、「お富さん」を今でもよどみなく歌えるということから推し量ると、きっと大ヒットした小学四年のころに覚えたに違いない。でもどうやって覚えたのか。親の見ていないところで「粋な黒塀 見越しの松に…」と歌っていたのであろう。

私が「校長の息子」の窮屈さから解放される時がきた。小学校を卒業したのである。父は末っ子の小学校卒業と合わせて他校に転任した。同時に家族は隣町の実家に引っ越した。実家には祖父がひとりで住んでいた

母の行は保育所長を辞して家庭に入った。彼女の家族作りが本格的に始まるのである。

父はアルバムのなかに「行さんの五つの顔」というページを設け、それぞれ一枚ずつ写真を付けている。

その第一の顔が「妻」である。公私とも内助の功とある。

第二は「保育所長」。これは辞した。

第三は「母」。

第四は「おばあちゃん」。「初孫をだいて 38年8月」の写真がある。

第五に「農婦」とあり、柑橘畑でミカンを収穫する写真が貼られている。

中学に入学したばかりの私には理解できないことであったが、行にとって、実家に住む祖父と同居しての新しい家族づくりはひと苦労だったことだろう。

父は元々養子に入った身であり、父母とも祖父と血のつながりはないのである。祖父はどうだったんだろう。再婚の経緯についてのわだかまりは消失していたのか。それはともかく孫たちとの同居は大歓迎だったはずだ。

祖母が病気で他界したのは昭和29年11月である。それ以来2年半にわたり祖父は実家をひとりで守り抜いてきた。

昭和21年12月の父の転任による別居から10年を経て家族は、生母清子の死という悲しい出来事があったとはいえ、再びひとつになったのである。

(青木忠)

昭和37年7月の写真である。祖父や初孫も一緒に写っている。

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